
0.1秒前の過去と感ずる方角から光が反射して現在に投影され、0.1秒後に現在の光の反射が脳内に投影される。時間にしておよそ十刹那である。この十刹那のタイムラグは永遠に超えられないので、極楽浄土までの十万億土の距離と変わらない。この十刹那のタイムラグが現在の前後を裁断しているのだ。
喩えて言うならばビデオで撮ったものを0.1秒後に再生し続けている。では、ビデオテープに時間は流れているか?厳密には流れてないだろう。脳に投影された映像は刹那過去の再生なので、時間は流れていない。つまり、現在去りつつある体感時間は、已に去っているため、去らないのだ。また現在撮りつつあり、0.1秒後に再生される映像は、まだ発生していないので去っていない。
視覚野に再生されていないが、感受作用中(去りつつあるもの)は身体機能上のブラックボックスに隠されている。そこに時間は流れているのだろうか?いや、時間は流れていないのだ。読者は隠されてはいるが感受作用が働いていると推測できるので現在進行形で時間は流れているのではないかと反論するだろう。
しかし、この推測がそのまま答えなのだ。感受作用が自らのはたらきやその時間を知覚するということはなく、感受結果から遡行して推測した結果、時間が流れたと推測しているにすぎない。この遡行して因果を推し量る能力こそが時間の流れの正体だ。
認識の外に時間は流れていない。たとえ作用が確認されても、その作用に時間は存在しない。時間の流れを感受する知覚器官など脳や体のどこにもないことは最新医学の研究でわかっている。それがないのは、時間の流れが本来存在しないからだ。あるのは[因果を推測する脳のシステム]である。知覚対象のそれぞれの関係性(縁)、因果関係を分析して時間の流れを再構成しているのだ。
認識の不在という闇の中、時間は存在せず、バラバラな情報の束を、我々の脳に予め備わった[因果を推測する脳のシステム]が時間を成立させている。時間は流れておらず、我々の肉体という衣の裏に予め縫い込まれた[因果を推測するシステム]という宝珠が因縁果報に沿って頭の中で再構成したのが時間の流れである。実際の脳の外側では光と音やその他情報のカオス的な嵐である可能性が高い。
実際のところ例えば桜は人間のように脳で四季や暖かさを知覚するわけではないが、その時と温度を原因として感受し、結果として春に開花する。これは桜が時間を知覚しているわけではなく、ある条件が整うと開花するように識(DNA)が構成されているからである。つまり、ある条件が整うことにより、時を知るのだ。この諸条件を[縁]という。
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