· 

前回の否定

と、前ページで空性を非と書いたが、一仮説であるとお断りしておく。所詮、頭の中でこねくり回してもたんなる施設、プラパンチャ、戯論なのだ。


おそらく、空や、龍樹の八不は、ある種の禅定、瞑想の深みに達して、その立場から言っているのだ。あくまで、推測、比量にすぎないが、内にも外にも、どこを探しても自己の無い、そのような特殊な状態において〈欠如した〉という意味の空が了解される。


ラトナキールティの説、類型からのアポーハ等も、その状態の真っ只中にあるものが、「あ、個々のものが識別できないや」という困った状態から出てきたものだろう。


前回の説を見返した私の心境としては、凝ったロボットを作ってうまく作動するが、何か違うな…決定打に欠ける、といった心境。