1#∞

1≠0

有を空じたところ無となる

--

無を空じたところ有となる

(≠)


一般的に空は仏教の根本的な原理として、全ての究極的な相とされる。三諦円融の教理では観念無をも空じた絶対無となる。しかし、それは格義仏教であり老荘の影響により空=無とされたが、本来は空は否定であり、「非」という意味である。つまりは、ディグナーガの言うアポーハ(排除)である。


無限は数学的には無量大数ということであり、仏教では無量数ということ。無量者(無限者)から空じられた、つまり無量からアポーハされた我々、有限の群は有限である種々の存在形態を彷徨う。それを輪廻という。彷徨う者は何か?それは無量者(無限者)自身に他ならない。それは有限者がその性質として無限から空じられた、何らかの存在として自身を限定する空をさらに空じること、非-非無限のプロセスを経て悟ることができる。彼自身が無限者の一限定形態であることに気づき、その無限者の否定である有限(有情)を解脱して無量者であることに目覚めること、それは全ての有限の有情に備わった性質(仏性)である。


諸法は無限を空じて現れる、非無限として。空は否定の原理であり、非を冠詞のように置いて、無限性の欠如を表す。


無限はそれぞれにとって

Aにとっては非Aとなる

牛にとっては非牛となる

自にとっては非自()となる


「牛が非牛からアポーハされたものであり本質的に非存在である」というディグナーガの論説に、ミーマンサー学派のクマーリラは反発し非牛のアポーハには一周回って牛が必要であり、さらに言えばアポーハを使うより、直接、普遍の牛性を使うべきと論じている。


また、クマーリラは人の共通牛認識(認識内形象)の牛性という提案もしており、ダルマキールティはその案に乗っかって認識内形象説を発表している。しかし、認識内形象を煙とすれば、火としての知覚外存在が在ることになるだろう。そこを格義仏教的な勘違いで火は非存在とはいささか強引すぎる。


おそらく、そういうことではないのだ。


ディグナーガは牛が無量(無限)から排除された1つの牛として表現しているのであり、非牛クラスタから排除された普遍牛の非存在や、認識内形象としての牛を言いたいわけではない。非限定の無量者を否定して限定された有情の牛が生じる。この否定が空であり、牛であるために無限性が欠如するということだ。


非限定である無量者は全てであり、全てでない、どれでもあるがどれでもない、のでであると同時に全ての存在にとって0である。この∞=0から否定()の働きがあり、つまり0を否定して1が生じる。0=∞の欠如が1であるが、これでは、1にとって0=∞は永遠の彼岸にある。これでは、無量者はそれ自身に限定されて降りてこない。無量者を意識することがないために、我々、有限な有情は永遠に輪廻を彷徨い、交わることのない彼岸から無量者が悲しげに見ている、これがヘーゲルの言う悪無限である。


この無量者は、有情の「他」として、有情と相対的なものであり、両者は交互にアポーハされている。その限りにおいては、この無限者「阿弥陀仏」はそれ自身に限定された無限者であり、有情からは区分けされた永遠の彼岸にある。


この垣根は、無限者じしんが彼の規定である制限(有限の有情でないこと)を否定することによって、彼自身の被限定性を取り去られる。


それは即ち、アポーハの否定としての方便法身である。無量者が自己を超越し、自己を否定して(空じて)、有限的となるということは、無量者そのものの本性だからである。(大悲大慈)


阿弥陀仏が迎えに来る。無量の光が有限者に降りてくる。


彼じしんに限定された有限的無限者と、摂取される有情(有限者)の双方の限定が否定せられて、法蔵比丘が登場する。南無阿弥陀仏。