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百姓の持ちたる国

 3/20は春分の日、エクイノクスにとっては名前に因む特別な日でした。この日に一向一揆の話しをするとは、奇妙な感覚がします。 


 加賀一向一揆1488年から1580年にかけて起こった、加賀の本門寺門徒らによる一揆。封建社会において、信仰に支えられた被搾取階級が武装闘争を起こし、百年にも及ぶ共和制の仏教独立国を維持した、稀有な例と言えよう。


この闘争の指導者は、ご存知、蓮如上人である。


 蓮如は1474年から1475年までの間、吉崎御坊(福井県)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。その後、富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。蓮如はこれによって守護の保護を受ける目論見だったが、政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて逆に門徒の弾圧を開始、裏切られた蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。越中では政親と結託した石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、1481年に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆)。また、政親は9代将軍足利義尚による六角征伐に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。1488(長享2)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、高尾城の政親を攻め滅ぼした(長享の一揆)。


 1546年には尾山御坊(現在の金沢城)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。1550年代から朝倉氏と、1570年代には上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。そして、長島一向一揆や越前一向一揆を経て、戦いは石山合戦へとなだれこむ。1580(天正8)に信長と顕如が和睦、石山本願寺が引き渡し直後に謎の出火による炎上、その後、尾山御坊も陥落した。加賀一向一揆は解体された。


仏教をベースとした共和制は、世界的に見ても珍しい。


 富樫家の権力のタワーを揺るがし、倒したのは、農民や階級の低い武士の分散ネットワークだった。ネットワークをファーガソンはスクエア(広場)と呼んだ。タワー(権力)を倒すのは、スクエア(平等)である。ネットワークは通信手段の発達により広まる。テクノロジーの発達は横軸のネットワークの発達を促す。蓮如上人の手紙(御文)を用いた伝道は、強力なネットワークを作り出すことに成功した。奇しくも、「仏の前に万人は平等」という思想のもとに農民主体の一向一揆が起こった16世紀ごろ、ヨーロッパでも似たような革命が皇帝やローマ教皇の権力を揺るがしていた。ルターの宗教改革である。


 ヨーロッパでは、その頃、活版印刷が発明された。。活版印刷は15世紀半ばまでにドイツ人の印刷業者であるヨハネス・グーテンベルクにより完成され、1455年には初の印刷されたラテン語の新約・旧約聖書『グーテンベルク聖書』が生まれている。蓮如上人の御文にあたるものが「ルターの聖書」である。ルターのドイツ語訳により、ラテン語の聖書は民衆も読めるものとなった。そして、印刷により普及させた。さらに、当時の教会の体制を批判した記事や風刺画を印刷して配った。ルターの思想は横軸で広まり、ネットワークを形成した。その結果、ルターの改革は大きな運動となっていった。ルターの思想は「神の前に万人は平等」であった。


「すべて破戒も持戒も、貧窮も福人も、上下の人を嫌わず、ただ我が名号をだに念ぜば、来迎せんと御約束そうろうなり」〈往生浄土用心〉