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仏教徒から民族主義者への回答


ゲルマン民族にしろ、漢民族にしろ、そして大和民族、民族主義からジェノサイドは起こる。自分たちの遺伝子の束縛が民族主義だとすれば、遺伝子の束縛を超えていくのが、真の教えである。2500年前に1人の大天才が遺伝子の存在に気づき、それを超える教えを説いた。釈尊は直感か、その智慧により、2300年後メンデルら科学者により発見される遺伝子に気づいていた。


釈尊は我々の始まりの無いほどの太古からの遺伝子の貪瞋痴の鎖を断ち切る教えを説いたのである。遺伝子による呪われた連鎖は、我々がウィルスやバクテリアだった時代からあった。それは、滅度への恐怖、無明から始まり、その恐怖により正反対の方向への逃走、つまりは生存への志向()が生じた。生存への志向は己が情報を複製する方法を編み出し、その情報は釈尊により識と呼ばれた。ウィルスは物質に己が識(情報)をほぼ無限にコピーするだけの存在であるが、自分を消滅させるリスクを回避するために、自分の識を変異することさえ始めた。識(情報)の設計図通りに名色、すなわち精神と肉体は形成され、5つの感覚器官と1つの思考器官を供えた。(思考器官を実際の器官とするとヴァイシェーシカ学派になってしまうが、器官が無いとすればナーマに属する)、5つの感覚器官と1つの思考器官はそれぞれの対象に触れると感受作用と思考を生ずる。その感覚に苦しみと快楽のどちらかを生ずる。その苦楽の振幅を仏教用語では愛と呼ぶ。苦しみを避け、快楽を繰り返すように識にプログラミングされている私たちは、快楽を繰り返し執着する()。むろん、快楽へのプロセスも、1番重要な要素である相手の容姿()や性格()も、先祖からの遺伝子の傾向により選ばれる。そして、安定して快楽を生じる相手と性行為を繰り返すうちに、子どもを授かる()。そして、その子供の生まれがあり、老化があり、死がある。これは、十二縁起という仏教における最も基本的な教えである。


十二縁起においては先のものが条件として揃ってから後のものが生じるが、後のものにより、先のものが決定づけられる。例えば、六処は名色に属するが、六処により名色という対象は把握される。生存志向により遺伝子()は娑婆世界に残留されるが、生存志向はその遺伝子にプログラミングされている、というふうにウロボロスの蛇のように頭がシッポを噛んでいる構造となっている。すなわち、老死により無明(死滅への恐怖)が生じるのである。


量り知れない昔から、自らの死滅を恐れた、ウィルスの前段階のタンパク質の原始生物により、正反対の方向への逃走、生命への疾走は始まり、その螺旋の道筋は今も絶え間なく続いている。そう、我々がその結果であり、また次世代への種子を残すべく理由も分からず奮闘中である。理由は?あまりにも単純な理由、滅度、涅槃、死への根源的恐怖(無明)である。この根源的な恐怖は、我々の個人を超えた、集合無意識、さらに根っこの意識の根源に染みついている。


遺伝子が「識」である。ここに、無始太古からの情報が全て記録されている。それは、生命がいかにして死滅を避けてきたかのデータバンク()である。蔵識、一切種子識とも言われる阿頼耶識というものが、最も正確に言い得ている。根本識である阿頼耶識は一切の存在を生じる〈種子、遺伝子〉を保持し維持し、かつ再生時に相続して引き継がれる識であるから阿陀那識ともいう。阿陀那は「維持する」「保持する」という意味のādānaの音写である。釈尊の言っていることのわからなかった古代インド人は、バラモン教の輪廻転生の概念に識を当てはめ、アートマンが転生する、マナスが転生する、または、アートマンではないがプドガラのようなものが転生すると、様々な形而上的な宗教、呪術、学派が様々な表現をした為に、インドは混乱してしまった。釈尊が説きたかった、生物的束縛からの解脱は、いつのまにか一族繁栄や現世利益、国家護持の為の祭祀にすり替えられてしまったのである。


民族主義は自らの遺伝子系統を守り、リスクの原因になりそうな因子、つまるところユダヤ、チベット、ウイグル、朝鮮これらを潰して自らの系統を守ろうとする、極めて盲目的な生物的、本能的なものである。一族や民族の永久繁栄、つまり、識の乗り物である〈種子、遺伝子〉を保持し維持し、かつ再生時に相続して引き継ぐことを半永久に盲目的に繰り返すオートマタ(自動人形)が生物の仕組みならば、それは当時のインド思想に変換すれば、永遠の輪廻を願う、仏教とは、いやヒンズーからしても正反対の思想になるだろう。願うところが永劫回帰では仏でなくニーチェになってしまう。では、我々仏教徒は家族、民族や国体の護持や存続ではなく、そこからの脱出(出家)、解脱を目論むべきなのだろう。とは言っても自己防衛おじさんのように大金が欲しいわけでもないので、彼の論はだいたいが正しいが、こちらとは動機が違う。年金はあてにしちゃダメ、国なんかたよりにしちゃダメであるが、自己防衛おじさんは生存のため、仏教徒は「素晴らしい死」のためである。


『無明滅すれば即ち行滅す、行滅すれば即ち識滅す。』死滅への恐怖が滅すれば、盲目的な生存意志、生存本能は消える。生きる意志はその実、消滅の恐怖から逃走しているだけだということを知る。生存志向が消えれば、遺伝子()は残されない。解脱者は何も残さない。釈尊は自らの国を、シャカ族を放置して滅びるままにした。諸行無常、釈尊にとっては滅びは当然であったし、寂滅為楽、滅びていくのは楽だった。死は恩寵であり、滅度は甘美なものであったのだ。釈尊は自らの教えを「流れに逆らうもの」と呼んでいる。それは暴流のような遺伝子欲求の、生命本能の流れに逆らうものだからに他ならない。


仏教の奇怪なところは、その死、無、滅度、涅槃の側に立ち、沙門は死神とダンスをして喜んでいるということを、何重にも難しい言葉と、複雑な比喩的な表現でオブラートをかけているところだ。法華経の、火宅から出るように豪華な車を用意するも、火宅から出たら「無」しか待ってないことは、オブラートによりぼかされ、わかる人は極めて少ない。化城でワンクッション休ませているのも、君たちは今から完全消滅に向かう、なんて言ったら皆んな逃げてしまうからだろう。仏は死滅までのガイドであり、死神でもある。