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キリトリ

存在しないモノの色・受は存在せず、付託できないので想もなく行により虚構され、識により分別された名、言語概念のみが仮に有るという片輪走行。


と、これの反対が対象のある場合、焚き火を見る時、色・受は有る(熱く、明るい)ようで、概念上言語上の焚火が虚構であり、その言葉は熱くも明るくもない、という理解の逆の方向にある。感覚のほうが実に有るという片輪走行。


存在しないモノ、言語概念のみしか存在しないモノ、存在しない状態、非在を成立する、認めるとするならば(例えば非在の状態になりたいなど)、その反対の存在するもの、存在物は、自性あり、それ自体で成立して常住ということになりやすまいか?


つまり、非在の成立を問題にするならば、その反対の存在の自性も成立するとなるしかし、その存在なるものは、始めから名の、概念の括弧によりアポーハされているのである。そして、概念を感覚で補強して存在と言っているのが現状。


言語概念だけで言えばそもそも虚構、因果を遠離して前後裁断されているとわかれば、そんな自性だの常住だのそれ自体で成立なんて言わない。そもそも不生という。発生してないもの(概念)は、それ自体でも成立しない。また、発生してないものの反対はそもそも成立しない。


そもそも、非在の反対は存在とか言う説が多いが、非在だったら片方のつっかえ棒にもならんので、存在も成立しないだろう、言語概念、論理上は。


また、存在するモノ、と存在するコト、に分けるとすれば(縁起理論上それはダメだが)、存在するコトは存在するモノの『時間』ということになる。


始めからステルスで括弧される、名の括弧を自覚すれば、そしてその名、概念を対象とした有無の分別認識はナンセンスだ。それは虚構なのだから。また、有る無しの分別はあくまで認識上の働きなので、その分別も空(虚構)であることが了解される。分別の対象が空(虚構)だからである。


私たちは〈全て〉から対象を切り取りアポーハしてから、名、概念により、存在としている。それは、認識内形象の全てをいったん認識し、そこから2次的に諸存在、諸法を概念化しているのだ。認識内形象は概念知の対象ではないので、1次認識ではそれは未だ分かたれてはいない。


物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体などはあり得ない。例えば、石そのもの、などということはあり得ない。石本体なんてものを想定する時に已にナーマでカッコされそれは概念なのだ。石と分別する前は石は何だったのか、全体の一部であり未だ分かたれてはいない。


認識内形象においては、石の他にも大地や草、空や人や建物、車、火や風、水を認識しているはずであり、なお認識内形象においては未だ概念知による分別、識別の対象ではない。つまり、石は石と未だ識別アポーハされずに、ただ諸々の形象として映っているのである。


それをいきなり石、と言語概念枠がすでに最初からあり、石の石自性を想起してしまっている。普遍的石、石本体、石ロゴスを神の創造した石の鋳型とした一神教。または、石を神として祀るアミニズムなど。


そのような本体論を認めると、石そのもの、石本体の大脳上のコピーが石の認識内形象という中途半端な説が出てくる。言語概念ナーマはそのコピーのコピー(長期記憶保存のための)というのは人の言語認識発生史上のことで、本体論を考える時には始めから潜在意識に概念の型がある。尻尾が先か頭が先か、みたいなことだ。


〈全て〉からのキリトリ作業が先にある。それをアポーハと言う。


そのため、石の神や火の神や風の神など普遍を神格化した神々は仏教と本来なら相容れないものだ。仏教はここでヴェーダ思想とは袂を分かつ。