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五戒の理由

ついに、武漢肺炎の日本国内での感染者から死亡者が出ました。不運な偶然か、それとも、恐ろしい何かの始まりか。


covid19、コビッド19という変な名前がついたようです。ホビットの冒険とか、消費者金融のモビットとか思い出しました。


こちらからPRCに闘争を仕掛ける前に、敵が自らの毒で自滅するという面白い事態になってしまうとは思いませんでした。まるでダイバタッタのような国ですね中共。自らの毒爪で死ぬ提婆達多のような中国共産党、南無仏!だって、戦争用に造った生物兵器の漏れで自国が壊滅しかけてるんですから…提婆達多国家と呼ぼう。


武漢の上空では火葬の際に発生する亜硫酸ガスが大量発生。その量から1万5千人前後の死亡者が推定されています。画像はその衛星写真。


このような危険なウィルス蔓延時の情報操作、情報統制が完全に初動の遅れを招きました。そして、発見した李文亮医師を犯罪者呼ばわりして処罰し、幽閉したあげく、死亡させてしてしまいました。こんなマヌケな政府を奉ってる人民諸君は、革命という概念を知らない人たちなのか?と疑ってしまいます。選挙や投票という概念すら無いからしょうがないけど。この隠蔽体質はバイオハザードには通用しません。事態を明るみに出そうとした市民記者2名がさっそく行方不明になっていましたが、彼らの無事を祈っております。


さて、話しを仏説に戻しますと


十二縁起


無明滅すれば則ち行も減(へ)す、行滅すれば則ち識も減す、識滅すれば則ち名色も減す、名色滅すれば則ち六入も滅す、六入滅すれば則ち触も減す、触滅すれば則ち受も減す、受滅すれば則ち愛も減す、愛減すれば則ち取も減す、取滅すれば則ち有も滅す、有減すれば則ち生も減す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩も減する。


性愛やダーウィニズムから見た12縁起の説明として、根本無明を生命体にある居残り欲、分身を作ってまで残存したい欲望と説明した。そのため、そのための仕掛けが我々の遺伝子には組み込まれており、つがいを識別し、名色を六処により把握し、それらが接触すると、これといった相手には感覚や感情を誘発し、再びその感覚、感情を味わいたいと渇し、再び接触する原因となる。何回も接触しているうちに対象に中毒(執着)になり、ループする。そのうちに予め遺伝子の作戦どおりに、妊娠(有)して、出産され、子孫(分身)たちの生があり、老死がある。


逆観としてこの残存欲、分身を造り出してもこちらに居残りたい衝動を滅すれば、その意志により形成された遺伝子レベルで肉体に根付いたパターンも減衰する。番いへの識別、感情、渇愛、中毒が減衰する。これらが減衰すれば、受胎、妊娠そのものが減少する。そうすれば、苦の原因である生命体そのものが発生しない。つまり、生命体(有情)の発生しない〈涅槃〉を目指すということ。あくまで、殺害などによる苦を与えない、というのが条件となります。


苦痛を発生させずに、いかに苦痛の主体を滅するか、ということが救い、となります。この思想を信じるものは、まず、六道輪廻、宇宙、生態系の妨害をしてはならないという教えがあります。このようなおせっかいはしない、と梵天との取り決めであったのかは謎だが。仏教過激派を抑える教えかもしれない。なぜ、生態系は、宇宙は、輪廻は終わり無く戯れているのか?輪廻の輪を回す原動力が無明(存在への欲求)であることは間違いありません。存在への欲求は残存への欲求、延命のために様々な変化を通して半永久的に生き続けます。それはすばらしく見え、美しく見える、しかし実は食物連鎖という共喰いの島であり、残酷な苦しみに満ちた処です。ここに住むものは死滅が楽になることとは思ってもみません。


古代インド人は輪廻宇宙からの解放を目論みましたが、それは非存在への愛(解脱願望)を生みました。彼らにとっては死後、何かが有る、何かが残ることが恐怖だったのです。転生する個我という概念は多くの宗教とカルマ(業)の概念を生みました。それにしても先々のことですけどね。


死後には誰も行ったことはない、行っていない処から無いとは言えず、また有るとも言えません。したがって、断滅するとも言いませんし、非存在であるから憂いが無くてハッピーなのですが、そうとも確定できません。


常住説…神の楽園で永遠に幸福な状態であるとか、72人の処女の花嫁が迎えてくれるなど阿呆なことも言えないでしょう。精神の延命行為というのがよくわかります。どちらにせよ、先のことですので、発生してません。


こうした、延命、残存欲に対して、別に無くともよくない?という疑問を投げかけるのが仏教です。そしてその立場から戒が考えられました。戒には理由があるのです。


多くの者たちにとってはやはり、無のほうが恐怖であり、有り続けるためのベクトルに全ては向いています。彼らは真の教えを知らないからです。まず、彼ら有情は死滅が楽であることを知らず、その有愛(存在への欲求)のために日々活動しております。滅が楽だと知っている人が、滅を楽だと知らない者たちを押し除けて生きてはいけない、というのが取るべき態度です。この考えから、滅が楽だと考えないであろう畜生を殺して食べるなどの行為が禁止されます。(不殺)


そして、非存在への愛のために、生きとし生けるものの絶滅を目論んでもいけません。これは無有愛と言われます。例え、それが大楽にせよ、彼らは自由な選択をできない状態で、ノーチョイスで死に突入することになる。仏教は非常に知的な宗教なので、修行者の思索、選択、自覚、涅槃までの間(距離)、滅への態度が問題になります。


はは、まるで自死や安楽死までの哲学みたいですね 笑


また、教えを奉じるものが、生存の利益のために、滅の楽を知らない他人の財産を盗み損ねてはいけない(不偸盗)、となります。基本法則は同じで、滅が楽だと知っている人が、滅を楽だと知らない者たちを押し除けて生きてはいけない、ということです。


そして、最も大事なのが不邪婬戒です。まず、戒律を守っていれば、子孫はできません。空海や最澄、道元や日蓮に子どもはいません。お釈迦様にはいらっしゃいましたが、障害(ラフラ)という名前をつけられ、出家の原因となりました。親鸞には子どもがいましたが、親鸞が自分にだけ念仏よりすごい秘法を教えたと嘘をつき、門徒を騙そうとしたので、破門、絶縁となりました。チベットのカギュ派のマルパには子どもがいましたが、呪術合戦となりドルジェタクに呪殺されました。聖徳太子の一族の子孫は、蘇我氏に皆殺しの憂き目にあってます。仏教者の子孫はどうもろくな目に合ってません。


さて、本質的なことを言えば、いくら花が咲き誇ろうと、葉が多く茂ろうと、実(子)を結ぶ作戦のために形成されたものです。無始の昔からのDNAの欲求(貪瞋痴)により形成された、見事な作戦によるものです。しかし、花(形象、身体)がいくら綺麗であろうと、葉っぱ(SEX)がいくら多かろうと、全ては実(子)を結ぶために遺伝子に形成されたものなので、実を結ぶことを否定したものは、花も葉っぱも用はない筈なのです。また、遺伝子の形成を利用して花や葉っぱだけを楽しむのは、教えを信じるものの態度としては正しくありません。未練は有愛(存在への欲求)の原因となりますし、ひょんなことから実(子)ができないとも限りません。


不妄語戒は嘘をついてはいけない、とされます。存在への欲求のため、自分に有利な条件、状況を手に入れるために、嘘をつきます。無明(生存、残存欲求)のために嘘をつきます。死後の世界をクリエイトしてしまうのも妄語でしょう。


不飲酒は、これは酒というよりも、大麻やキノコなどその手のものを戒めているようです。この手のものに手を出すと、いとも簡単に映像と音響つきの虚構が成り立ちます。


死後が有ろうとも、無かろうとも、病根は想像上の延命による心配であり、先のことを考え心配することです。あるいはその反動としての非存在、断滅への想像、欲求です。非存在というのも想像上での非存在であり、先の希望としての非存在です。考えてるうちは、非存在ではありません。先は全くの未知です。


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なぜ名色は六処の前にあるのか?


感覚器官はイナズマのように作用するだけで、それ自身では知覚されず感覚内容の色から逆算して導き出されているので、名色の後に六処があるのだろう。思考内容と感情から、それを機能させる意根を遡り認識する。が、その機能はあくまでも機能の結果から推理できるのみであり、実体視できるものではない。その裏付けは経験的に先行する名色によってのみされる。


[目、耳、鼻などの感覚器官もその色形によって把握され、また、その働きを、理屈や経験則として(名)把握しているので]