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浄土と成仏国土

シャンバラは一種の浄土である。諸々の伝承や、テオドール・イリオンなどの探検家、ダライ・ラマやその他宗教家の説くところによれば、それは地下世界にあると言う。


前頁において、西方浄土がアルデバラン星系にあると推測したが、そのように「水」に溢れた理想境からどうしたわけか、太陽系に飛来した彼らは、木星と火星の間の、現在ではアステロイドベルト(小惑星群)になっている処にある巨大惑星に居を構えた。その惑星は、ユダヤ教伝承においてロトの妻が塩の柱になった等の大異変が元で木っ端微塵になり、彼らは地球の極から侵入し、地下世界に居を移した。地球の地表での太陽光に弱いため、もしくは、昨今のデビッド・アイクの研究によれば、改変された太陽フォトンを浴びたくないからか、地下に引き篭っている、などの怪情報、都市伝説、諸概念。法華経の地湧菩薩も、娑婆世界下虚空から出現しており、浄土シャンバラの地底人の存在はオカルト好き諸兄にはお馴染みのものであろう。


西方極楽浄土には、生命がいない。極楽鳥の描写が数多くあるが、あれは生命体ではなく、阿弥陀仏が法術で造り出したものだという。となれば、極楽浄土は生命体のいない、月面のような死の世界、美しいが誰もいない世界なのかもしれない。


前頁では、12縁起の説明として、根本無明を生命体にあるコピー欲、分身を造り保存したい欲望と説明した。そのため、そのための仕掛けが我々の遺伝子には組み込まれており、つがいを識別し、名色を六処により把握し、それらが接触すると、これといった相手には感覚や感情を誘発し、再びその感覚、感情を味わいたいと渇し、再び接触する原因となる。何回も接触しているうちに対象に中毒(執着)になり、ループする。そのうちに予め遺伝子にその思惑で組み込まれたとおりに、妊娠して、出産され、子孫(コピー)たちの生があり、老死がある。さらに、釈尊は言う、


無明滅すれば則ち行も減(へ)す、行滅すれば則ち識も減す、識滅すれば則ち名色も減す、名色滅すれば則ち六入も滅す、六入滅すれば則ち触も減す、触滅すれば則ち受も減す、受滅すれば則ち愛も減す、愛減すれば則ち取も減す、取滅すれば則ち有も滅す、有減すれば則ち生も減す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩も減する。


つまり、このコピー欲、分身を造り出したいという衝動を滅すれば、その意志により形成された遺伝子レベルで肉体に根付いた被形成物も減衰する。好みのタイプへの識別、感情、渇愛、中毒が減衰する。これらが減衰して条件が揃わなくなれば、受胎、妊娠そのものが減少する。そうすれば、苦しみを感じる生命体そのものが発生しないじゃないか?という論理です。これが、12因縁の逆観です。つまり、生命体(有情)の発生しないところ、ということが浄土になります。


仏教は恐ろしい、知らずに安らぎに満ちながら死への階段を降りている、とはどこかの偉い作家が言っていたことだと記憶している。


すると、これを短絡的に考えて、核や何かの兵器で、地球上の生命体を殺害したら、現実世界の浄土化、つまり浄仏国土となる、と考える人がいるかもしれない。しかし、考えてみればどの生命体にしろ死は避けられないので、この世界はもうすでに半分、いやほとんど浄土のようなものである。そして、何も発生しない、月面や宇宙空間のような環境が浄らかとして無にこだわっても、それは無有愛(パーリ語: vibhavataṇhā)と呼ばれる渇愛の一種で、存在しなくなることへの渇愛とされる。第一、生命体という生命体がいなくなったとしても、この宇宙が全くの無からビッグバンにより生まれたとされるように、また新たなる輪廻宇宙が、そして生命体(有情)生じてしまうので、無にこだわってもしょうがないのである。しかし、必ず死の来る世界であることが、浄土という解釈もできなくもない。つまり、往生は既に成っている。あとは、どうしたって死のほうが生存の罠より素晴らしいと悟ることが道となる。魂概念の延命や、概念を伝達するという意味での弟子育成や、肉体延命である性愛と育児、これらの穢れさえ滅してしまえばよい。死は安楽であり清浄境であり救いであるが、それに渇してはならない。一つには必ず来る死との距離の詰めかた、間の置きかたが問題であり、もう一つは死を救いとは思えない、考えられない、考えることのできない他宗教や、他の種類の生命体との関わりかたである。

「私は死を救いと知っている、しかし、なぜそれを知らない他の動物(有情)や、他の思想や他宗教(外道)、全く仏教の真意を知らない人々より、生存を得ようと、もしくは他生命を押し退けて生存しようとする?」という哲学的問いが重要なのである。