· 

謹賀新年2020

明けましておめでとうございます。

十二支では始まりの「子」になりましたね。十二支にまつわり、十二支因縁、または「子」の話しをしようかと思います。

まぁ、ネズ公の話しではないですがね


2020年は初っ端から、第三次世界大戦の危機に見舞われ、トランプのプロレスのせいでイラン国民及び、イスラム教徒の方々は煮え湯を飲まされましたね。ソレイマニ司令官は暗殺されてしまいましたけど、「ソレ、今ニ戦争だ」と残念ながら頭の中で考えてしまいました。「中国が風邪を引く」という何処かの予言通りに、謎のウィルス性肺炎が流行っています。プラスチックナノ粒子は北極の動物や魚まで汚染し、グレタさんが集合無意識に突き動かされるかのように叫び、また、ベテルギウスの超新星爆発によるガンマ線バーストによりオゾン層が完全に破壊される可能性も取り沙汰されています。ジョージア・ガイドストーンに書いてある通りに、人類の人口を十分の一にすべく、何かが動き出しているのかもしれません。


さて、ここ数ヶ月、いわゆるレプタリアン、恐竜人種、地球先住民、鳥に近い彼ら、について考えてきました。極楽浄土には鳥ばかりいる、という印象も手伝ってか、または鷲谷日賢の奇怪な本の影響か、キンナラや竜王、羅刹女について書き記してまいりました。はては、その起源を遠く十万億土の向こう、宇宙の彼方、アルデバランやペテルギウスの星系に求めてみたり。


さて、ここら辺で落ち着いて、なぜ「存在しないかもしれない彼ら」について書いてきたのか振り返ってみようかと思います。


まず、重要なのが、「彼ら」ないしは、彼らのモデルになった恐竜たち、は大滅亡によりこの世界には已に存在していない。また、何らかの手段、または異星の思惑か助けにより、当時の捕食対象である猿にその遺伝子を残したにせよ、それはあくまで仮説やオカルトの域を出ないものであり、その主流の形態や主な活動は完全に滅し、終了している。傍流として鳥は活動はしていますが、「竜種」としてはこの完全に滅びてしまったもの、という了解があるわけです。


以前の私の説では、アブラハムの宗教の聖典を極端に曲解した解釈、またはエジプトやシュメール、ペルシャの神話から、蛇や竜に象徴された太古の存在が自らの一部を人類に埋め込み、形を変えて生き続けているようなことを言いました。そういう意味で人類は畑なのだ、と。彼らはその畑を耕し、己が種族の延命を図っているのだ、という説。


似たような意味合いの大乗仏典、特に法華経では、方便現涅槃ニルヴァーナは方便であり、ブッダは未だ我々の行道不行道を見守っている、また久遠の昔から生き続けている久遠仏が出てきて、かなり常住のほうへ傾いた、仏は永遠の神のような存在になっています。


一方で原始仏教やその流れの上座部仏教での「解脱」は再び、二度とこの六道輪廻の世界に生まれ変わらないことを目的とするものであり、「灰身滅智」一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すことが、理想とされる涅槃の境地、ニルヴァーナであります。灰滅、無余灰断とも言います。


おそらくは、生物種はこの「無」「滅」というものが非常におそろしい、そこから、生物種の努力は始まります。転生概念の発達や、久遠仏や、授記や、外道のパラダイスなど「精神(名)の延命」の文化を創り出しました。「肉体(色)の延命」においては子を造り、二世安楽、子孫繁栄を祈願するわけです。なぜ、子を造ろうとするかと言えば、子は己が分身、コピーであり、後の世に残すものです。言うならば、一種の延命です。そう徹して考えると、いわゆる性愛や闘争、労働や貯蓄、教育や医療に至るまで全て「子」を中心にして回っていると言えます。そして、この己が分身コピーである「子」を残したい衝動が、仏教で言う「無明」に近いものであるのです。ブッダは十二因縁を説きました。




「及び広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色(みょうしき)は六処に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり。」


さて、ここで性愛(カーマ)、もしくはダーウィニズムから見た十二因縁を考えてみましょう。


子を残したいという根本欲求〈無明〉は行、つまりパートナーを探す指向作用(性欲とも言う)を生じます。〈行〉には生成作用という意味があり、SEXを暗喩しているのかもしれないですが、条件づけられた作用、または指向作用という意味があります。性的な指向作用は〈識〉と縁があります。識は男女の分別、つまり性別でもあります。そして、背の高さ、顔、頭のよさ、肉体の好み、性格を分別します。これは行の条件付け、つまりは予めDNAに書き込まれた情報プログラムに依っているのです。美しい異性、体が魅力的な異性、才能のある異性に惹かれます。行の条件付けにより、相手の分別(識)、選択がなされるわけです。識は行より起る。行はこれ識の縁たり、というわけです。


さて、分別は〈名色〉を対象としています。私たちは異性を色(形態)と名(精神)により把握しますが、対象が女性でしたら、女性の形態と精神があります。それを六処という感覚器官と脳(意識)により把握しています。名色は異性の性格(中身)と形態(顔やスタイル)と考えるとわかりやすいです。これら対象の性格と形態は六処という感覚器官と脳がなくては把握できません。六処は名色という対象と触(接触)することで作動します。接触により受(感情)が生じます。この受(ヴェダナー)は楽しい、苦しい、などの感情のことです。そして、次の愛(渇愛・タンハー)を生じます。これは、先ほどの受(ヴェダナー)を再び体験したい、という願望が生じるということです。再び、というのがポイントです。「再び」かの楽しい感情、感覚を味わいたい、しかし、今は味わえていない、故に渇するのです。愛(タンハー)は再生をもたらし、終わりなき転生(サンサーラ)をもたらすと言われています。再び、味わいたいがために、また同様のシュチュエーションに戻ってくるのです。そうして、再び味わうことに成功します。そして、ループが始まります。つまり、その感覚、感情にハマってしまうのです。これが取(執着、ウパーダーナ)と言われています。いわば、その感覚、感情に中毒してしまうのです。例えば、性愛のことでしたら、何度も相手と逢い、デートし、SEXをします。その感覚、感情、性愛にハマり、ループします。そして、その感覚、感情、それを齎す体験、条件、対象を手放したくない、と思うようになります。いわゆる執着となります。


しかし、よく考えてみれば「このどうしようもない状態」の根本原因は、自分の分身、コピーを後世に残したいという遺伝子の根本欲求のためであり、お相手の魅惑的な異性は単なる「釣りのエサ」なのです。お尻や胸がデカい女性が人気あるのも、遺伝子情報に、安産型であり、子に母乳という栄養をたくさんあげられそうだ、と潜在意識の奥底のさらに奥底の生物種としての経験に仕込まれていることによります。


さて、この遺伝子の仕込みの目論見どおり、お互いを気に入り執着し、まんまと何回もSEXしまったカップルは、当たり前ですがその片方が妊娠します。この妊娠を〈有〉といいます。自分達のコピーを残すことに成功したわけです。遺伝子自体の残存、種の保存が成功するわけです。これを「有」と言います。人類の有。これは人道だけではなく、他の生物種、存在形態にも当てはまります。例えばネズミなら、ネズミ種としての有、ネズミとしての存在形態(有)ということです。


そして、妊娠から出産(生)となり、その存在形態において生まれ、〈老死〉があります。

老衰・憂悲・苦悩、そして〈死〉はこの生に起因しています。


さて、先日ふと思ったのですが、別に子どもを造らなくてもいいじゃないか?と。まぁ、パートナーがいないことが理由かもしれませんが、よしんばお相手がいたとしても、あと20年も経たないうちに、環境破壊で地上は住めないような状態になるでしょう。気温も10度くらい上がりそうですし、アホな大統領のツイートで世界大戦が起きそうな状況です。生まれた子どもをこんな不安定な世界に放り込んでも、フリーメイソン、さらにはその内陣のイルミナティが人口の九割削減を目論んでいるならば、不幸にも死ぬ可能性が高い。だいいち、空海や最澄、日蓮や道元が子ども残してますか?子どもを残した親鸞もそれにより最悪の苦しみを味わい、絶縁していますし、さらにその子孫は徳川家康に利用され、宗派が完全に分裂する原因になってしまいます。苦しみの原因となっています。釈尊も、子どもができた時、ラフラ(障害)だと呟き、憂いたと言います。


と、頭では考えましたが、何処か引っかかりました。私は何故、子どもが欲しいのかを考え、将来、子ども居ないかもな、別に居なくてもよくないか⁉︎と考えた時に、あまりに巨大なよくわからない、無の池のほとりに佇んでいるような、そんな感覚に襲われました。この底無し池のような感覚が嫌で、滅亡と見せかけて(方便現涅槃)、実は世々生きている、無とは正反対の時間を超越した(降三世)、爬虫類人種(竜)について、チベット地下の都市シャンバラ、竜の王国ドラコニアを妄想していたのかもしれません。とは言え、仮説を妄想施設プラパンチャするのは楽しみなので、まだ少し続くかも。が、おそらくは無の嫌な感覚のほうが本来、ブッダが我々を連れて行きたい処なのでしょう。何が嫌かって、そのまま無の池の底無しに惹かれてしまう、そんなところもあるのです。


この底無し池…私にはまだ洗足池クラスの感覚ですが、悟りに近い人には無の海になってしまうのかもしれません。舞の海ではありません、念のため。どすこい!本年も宜しくお願いします。