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色即是空

いわゆる、現象面の感受の対象であるもの、色(ルーパ)は、「何であるか」は言えない。感受作用は確定知を伴っていないから。声香味触などの感受もかくのごとし。確定知は共通相である言語概念に結びつく。西洋の思想家、カントやプラトンは、天界にその原型的観念を求め、それを本体やイデアと表した。が、仏教ではこれを真っ向から否定する。


これは、蛇の頭が先か尻尾が先か論争に似る。ウロボロスである。


仏教では、「幸せ」の感受の結果としての想薀(イメージ、短期記憶)があり、それの再体験欲求または保存欲求…つまり、再体験のためのメソッドが「行」である。行のために文字概念がうまれ種子として識(阿頼耶識)に保存され、再びそれらは取り出され日の目を見るのを待っているわけだ。仏教ではイデアの元になっている言語概念(法)は後から来るものだとする。言葉は、人間の再体験欲求、ループ願望から発明されたものだ。じつは、このループ願望こそが、輪廻の原因らしい。幸せ、美味な果実、勝利、愛の再体験欲求が、再び六道輪廻に戻ってくる原因となる。


幸せ、美味な果実、獲物や穀物の長期保存のための蔵が阿頼耶識。長期保存されたもの(言葉)は一回死んでいて、受想行識(眼耳鼻舌身意識)は付随していない。保存しよう、また後で再体験しようと思っても、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…つまり、言葉とは虚構や死体に似た性質を持つ。


道元は言う、前後裁断せり、と。言語的な焚火は消えないし炭にならない。木から薪を切り加工する、火を起こす、焚き火になり、燃え尽き炭となる、という因果は前後を断ち斬られている。言語概念の焚き火は熱くないのだ。つまり、虚構なのである。言うまでもなく、言語概念の焚き火は、本物の焚き火現象のコピーなのだ。


西洋ではこれをひっくり返して…「始めに神の言葉がありき」…ことによる「焚火」があるとしてしまった。これはモーセの見た柴の火によく表されている、この「柴の火」は燃え尽きなかった、と聖書にはある。ようするに、道元の前後裁断された焚火と同じく、炭にならないのだ。西洋ではこれを神ヤーウェの顕れとしてしまう。事実、モーセは礼拝していた。言葉崇拝なわけだ。


しかし、仏教では「これは焚き火である」という分別の起こる前に感受しているとする。何であるか確定された分別は後から起こる。もしくは、「これは焚き火である」という分別知、確定知は感受とは別に起こるとされている。感受は独自相であり、分別は共通相だからである。


ので、感受の向こうにある対象について、例えば焚火から受けた感受の対象の客観的本体については「焚火の本体」とは言えない。仮に「本体」と言えたとしても、それが「何であるか」は全く言えないのだ。感受作用は客観的本体の代替である。言語概念はさらにその感受作用の代替である。代替の代替をなぜ「客観的本体」に混入するのだろうか?カントやプラトンは順番を間違ったのかもしれない。コピーのコピーを頭に持ってくるのはおかしい。客観的本体に言語や概念は混入することができない。故に「〇〇の本体」「神の創りたもうた〇〇の原型」などという頭に分別を持ってきた思考形式は間違っているのだ。(〇〇は言語概念的焚火に相当する)


仏教が「客観的本体」の代わりに置くのは「空」である。ドーナツ状のようで、真ん中には穴が空いている。「客観的本体」が「空」であるということは、無というわけではない。有に非ず、無に非ず、有無に非ず、非有無に非ず、と龍樹四句否定にある。それが「何であるか」は全く言えないのだ。