空不異色

色不異空

有は無という土台の上に差異化され立脚されない

空不異色

無は万有に対して差異化された何らかの定義、概念、実体をもたない


隻手の片方…概念すらない無を……〈空〉という造語でブッダは説明する。デリダが〈差延〉や〈脱構築〉といった造語を造ったようにである。


概念ですらないはずの無を片輪に無理やりするために仮の無をでっちあげる。言い方を変えれば概念化された偽の無である。それと対の有をもう片輪にするのが奚仲の車。結果としての有無を支える行為としての〈有る〉〈無い〉が車軸となる。無意識下の形而上的な矛盾を暴きだすという点で、奚仲造車の話はまさに〈脱構築〉である。片方の車輪が偽であり、そのため対の車輪も車軸も成立しない。有無がじつは走行できない車(思考)であることが暴露される。


さて、この有無だが、対象(色や想)の有無といったふうに使われる。形而上学的には有や無そのものが対象とされている節があるが、そんなのはありえない。


色(ルーパ)は受をとおした、その受の内容物として想としてしか認識できない。ので、そもそもルーパの客観的有無は不明である。というより客観的有る無しを思考する(車が走り出す)前に、有無が成立しないことに思いをはせれば、車は止まる。



奚仲の車で言えば、車軸(有ることと無いこと)はナーマの側にある。車輪に目を移せば、車輪の片方はルーパが無い、しかし無いというふうに代理の無を立てる。もう片方の有の車輪に目がいく。これは最初にルーパに根拠を持つのだが、実はこのルーパの客観的有無が不明である。そして、ルーパ(物質)が有るか無いかという視点実体はナーマに属する。有無というゲシュタルトはナーマに属する。しかし、有無そのものが成立しない公式ならばどうする?〈空≒無〉が〈色≒有〉に対していかなる差異を持つ〈何〉としても成立しないならば、無ですらないのだ。〈空〉は対象として成立しない。故にナーマも働かない。というか対象が発生しないなら無ですらない。


有無そのものが成立しない公式であるいっぽう、対象との接触が分離すれば有無の対象が欠けているためその有無を言えない。何の有無?


対象との接触がなければ、対象の有無は成立しない。色(ルーパ)との接触(触)による受がなければ、いったい〈何〉の有無か問われない。名色が分離して非接触だとしたら、〈何〉の有無は不明である、〈何〉じたいがなんだろか?そのとき有無を問われる対象とは非接触である。対象が〈自己〉や〈世界〉だとしても。最初から問われない。


対象が欠けていれば、対象への意志作用(行)も働かない…という意味でも車は止まる。