反(アンチ)としての有無行為

龍樹の四句否定


有る 無い 〈有無〉

有る行為 無い行為 は「反」である。

有る行為による存在、は行為前は無である

無い行為による非在、は行為前は有である

◯◯が無い、というセンテンスにおいて、◯◯は前まで有るわけだ(無い、何が?

◯◯が有る、というセンテンスにおいて、

◯◯は前には無い、または、有の前提として無いという背景が横たわっている。

ところが、肝心の無は、主体としても行為としても成立しない。成立しない無からの反である行為(有る)も成立しない、よって行為結果の有も成立しない〈非有非無〉。


無からは反せない。


〈有〉は〈無〉から反である行為〈有る〉により現出する。有というよりかは非無、反無なのだ。発生前には主体が〈無〉なので行為も付随しない。よって、反である行為〈有る〉もなければ、その結果の〈有〉も成立しない。コレが反である行為〈有る〉の否定の証明である。


前段で〈有〉が成立しないことが証明されたのでこの段は本来なら不必要なのだが、念のために捻くり出す。〈無〉が〈有〉から反である行為〈無い〉によって成立する、しかし、結果である〈無〉には永遠にたどりつけない。〈無〉に行き着くことはない、存在しない場所にどうやって行くのか?〈有〉が無くなり〈無〉となるは不成立、のはずなのだ。〈無〉への認識など成立しない。それでも無への認識が成立するように感じられるのは、無というより仮の無をたてているから。そして、かつて有ったという認識が残っているからである。コレが反である行為〈無い〉の否定証明である。


かくして、片方ずつ否定された。いや、片方ずつの否定にも両方使わざるを得なかった。次は有無の両方について。


〈有〉が反である行為〈有る〉により、いかなるとっかかりもない〈無〉から立ち上がることはないので、〈有〉もまた成立しない。〈有〉から反である行為〈無い〉や結果の〈無〉も問題にされない。


しかし、それでは脳の意識が働かないので、仮に反ガ可能デアル無ヲ仮定シテ有ヲ更ニ仮定スル。こういうズルをサンスカーラ(行、創造力)がやっているので、本当は有無の両方が成立していない〈非有無〉


しかし有無の成立しない非有無としても、有無の両方が無いとは言えず、有無の両方が有るとも言えない。肝心の有無が成立していないのに、非有無の解釈として有無じたいの有無を言ったらパラドクスになる〈非非有無〉


有無概念の非成立を、有無概念の無とも捉えられない、なぜなら無がまだ非成立だから、というのが非非有無ということである。


そして、今ここで我々が取り扱っている〈無〉が仮の無だということを宣言しよう。これは認識でたどり着ける仮の無だ。真の無などは≠なのだ。いかなる法(言語、思考概念)と等ではなく、片側がないので = とならない数式…隻手の数式である。


=0 つまり〈無と等であるモノ〉である。しかし〈無と等であるモノ〉では法(概念)の上で有になるので、無にはならない→ ≠0。しかし〈無と非等であるモノ〉となっても法(概念)上の有なので〈≠0〉では表されない。


〈空〉…意味構成の全てが崩され全滅する。全滅という意味すら全滅する。〈≠0〉は記号としての無を否定することにより、仮の無であると強調している。


≠ はグッティ和尚の指詰め禅である

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コメント: 1
  • #1

    ebi (木曜日, 29 6月 2017 02:35)

    ◯◯は前には無い、または、有の前提として無いという背景が横たわっている。

    と思ったが、○○の前提の無を形而上的無にすると、対象になりようがない。無は○○の欠如である。先の無、後の有、後の後の無、としてみると…先の無と、後の後の無は同じではないか?形而上的無が何だか有である○○と絡みようがない。先の無と後の有、後の後の無は、相対的な縁起のようなものが絡みあうが…

    シャカにしっかり帰依していないと、意味が曲がるのかもしれない…