在る女神

仏法やある種の外道の思想のスタンス的に言えば、人の思考や言語が実相を表すには不完全というところから来ている。


ハイデガーのいう存在の二つの側面…


●在る

●在るもの(存在)


を分けてみる。


●在る(動)-女

●在るもの(静)-男



と考えてみたとき表されるのが画像にあるダントラの絵。つまり、ものごとの行為と主体の二側面である。


しかし、


〈在る〉無しには〈在るもの〉は成り立たない、〈…もの〉になってしまう。下のシヴァは只の死体(物質)になってしまう。また、カーリーには時の意味もあり、時間の停止した物質…死体である。


また、


〈在るもの〉無しには〈在る〉は成り立たない、何が在るの?となってしまう。つまり、上のカーリーは足場なくして踊れない。


どちらが先でも成り立たないが、両方同時にも成り立たない。最初から独立した二つの概念となってしまうからである。


あたかも、ヤブ・ユム…父母尊のように絡み合い、存在している実相。


無門関の女子出定において、初心者レベルの罔明菩薩は、在るもの=主体(釈尊)と、在る=行為(女人)を分けて考えてしまうため、女人は定から出てしまう…。智慧の仏である文殊菩薩は、在るもの=主体(釈尊)と、在る=行為(女人)を分けて考えないので(不一不異)、女人を定から連れ出すのは不可能である。これについては、また今度に書こうと思う。


つまり、〈在る〉と〈存るもの〉を分けると、どちらが先でも、双子のように同時に発生すると考えても成り立たない。


存在の構築のこのようなバグを指摘して構築物(諸存在)じたいを揺るがす、そのようなところが仏法…とくに龍樹の教えにはある。構築物じたいを揺るがすのは脱構築的である。


では、〈世界〉は成り立っていないのか?成り立っていなければ、〈在る〉と〈存るもの〉を否定することになる。世界は最初から存在していない…であることになる。しかし、これは〈断滅〉である。この見は排さなければならない。


では、世界の実相はどうなのか?これにはユダヤの思想を汲んでくると意外にも了解が疾いのである。


つまり、実相を父〈存るもの〉と母〈在る〉の〈子〉であると見なす。世界は〈子〉なるものである。これだと、父母は分かれない。〈子〉だけが現れていて、父母は独立した2者として表れない。また、両者の否定でもない。


〈子〉なる神…キリストである。


であるのだが、ユダヤ教では父と子がひっくり返る母と子を合わせて父となってしまうのがユダヤのカバラの奇怪さである。そして母の正体も極めて巧妙に隠され、ぼかされている。


ユダヤ・キリスト教では、存在の動的側面を女性として表さなかった。カトリック教義では、三位一体の〈聖霊〉としてぼかされている。しかし、カーリーが上で踊るようなダイナミズムはない。では、どうやって隠されているのか?


それには、聖書の歴代の奥さまの面々を見てみよう。90で孕むサラ、故郷よりラクダに乗ってくるリベカ、難産で若くして死ぬラケル、人妻であるバテシバ、遠方より来る異教のシバの女王、処女懐胎するマリア。


つまり、じつは途方もなく年寄りだが孕む。アラム語では「ラクダ」と「ロープ」が同音語なので、ロープのように長い。子(結果)を産むと難産であっという間に死ぬ(時は過ぎ去る)。すでに〈存るもの〉に付随した〈在る〉ところの人妻。地の果てにも住むがここにも来る。肌は黒檀のように黒い(在ることは見えないの暗喩)。〈子〉を産むが父親がいない、これは因の〈在る〉ところの結果であるところの〈存るもの〉とキリスト神学の進化と言うべきものである。キリスト教では〈在るもの〉は〈子〉として現れた…なので、創世の父〈在りて在るもの〉なわけである。ユダヤ思想のカバラでは実相が父であり完全体である。〈子〉は未だ半人前であり、母がいないと成り立たない。


これら聖書の女性陣の記述は、時間または〈在る〉について表している。存在の動的側面、シャクティを表しているのである。〈在るもの〉に対する〈在る〉、〈在る〉は行為なので始まりと終わりがあり、三世の〈在り方〉がある。よって時間が生ずる。時間のあるが故の年齢、老化、無常である。子(在るもの)を産むと難産であっという間に死ぬ(過ぎ去る)ラケルは〈在る〉つまり、在らしめる力、行為、を表している。似たものに、認識行為は認識結果を得た時にはすでに過ぎ去る、というものがある。


つまり、〈在る〉は女であり、〈在るもの〉は男(ユダヤ思想では子)である。この2つを分けて考えるとカラダを2つにされたように現象が死ぬのである…そう、現象は首を刈られてしまい、〈首=在るもの〉で身を飾る〈カーリー=在る〉となる。こういう動的側面=女神優位がタントラである。似たようなものに鬼子母神があり、たくさんいる子を〈在るもの〉と考えれば〈在る〉が鬼子母神であることは明白である。これなどはユダヤ伝統以外で〈子〉が〈在るもの〉とされた例だろう。

コメントをお書きください

コメント: 6
  • #1

    EBI (金曜日, 17 3月 2017 16:44)

    では、レアの意味は何であろうか?

  • #2

    EBI (金曜日, 22 6月 2018 23:15)

    レアは雌牛の意味。反芻するので記憶。確定された名称(セム)と延長(ヤペテ)のある存在物は、牛(記憶)のエサとなる。

  • #3

    EBI (金曜日, 22 6月 2018 23:21)

    始まりと終わり、つまり、生住異滅のない存るモノは、偽者である。つまり、前後裁断された燃えない柴。食べても減らないパン、飲んでもなくならないワイン。これらには生住異滅つまり時間が欠けている。サラ、リベカ、ラケル、シバ、バテシバ、マリア…彼女たち在ることは時間なのだ。

  • #4

    EBI (金曜日, 22 6月 2018 23:42)

    マリアは、子より先にいる、在るモノより在る(時間)が独尊で先にいる、復活の後にもいるというロープ的なものになっている。父はいない、と改変している。クロノス独尊がクローズアップされているが…。バテシバはダビデとの不倫(時間は誰にも作用する)というか…イエスはダビデの子孫。バテシバはマリアでもある。バテシバは正直な表現だが、マリアの処女という嘘はなんだろう。

    レア=雌牛は多産であり、闇の中ふとんに夜這いをかけ子をたくさん産む。リリス=鬼子母神的なものである。牛も鬼も角があり…ほとんど認識作用に似たような。反芻=記憶するし。ラケル=はかない想薀、レア=雌牛、記憶、反芻、識薀。夜這いは行薀であり…色薀がヤコブであろう。

  • #5

    EBI (金曜日, 22 6月 2018 23:51)

    つまり、在ること=時間=認識

  • #6

    EBI (金曜日, 22 6月 2018 23:58)

    いや、それだと、前後裁断された時間なきモノが確定知に認識されたモノなのに

    時間=認識 ておかしい

    認識されたもの

    認識作用
    の違いだろうか