天上の欲望を再び満たすための輪廻

天上の欲望なしには成立しない色受想行識。


かつての天上の栄華、天上の快楽の感受なしに、再び人には生まれてこない。


中世のイスラム暗殺団にニザーリ、または〈山の長老〉と言われおそれられたものたちがいる。彼らは旅人を誘拐し、山あいにある豪華な宮殿で短期間、ハシシ(大麻を精製したもの)を与え、美女だらけのハーレムでこの世のものならぬ快楽を味合わせる。そして、また元の状態に戻し、再びあの天国を味わいたくば、あるターゲットを殺せ、と命令するわけである…。


我々は皆、その旅人のようなものではなかろうか?再び感受したい天国の記憶があるからこそ、また再び人に生まれてくる。


釈尊は王宮、さらに言えば天上の出なのでそこらへんの快楽は極め尽くしている…が、かの人は満足できなかった。おそらく、かの人は天上の快楽に飽きていたのだろう。そこらへんの贅沢さが釈尊の特徴でもある。


仏教と言えばリピート(輪廻)を逃れるための教えである。そこに着眼してみた。つまり、人や生類をジャンキー、生命体験の中毒者とみなしている。仏が何のために説法するかと言えば、人々や動物にいたるまで、飛鳥であり、田代であることを気づかせるためだと思うのだ。



色(物質)というが、客観的なソレであるところのソレは確認できない。これなどはフッサールの現象学に詳しい。ソレは見られるところのソレである。〈こだま〉のように、色(形態)は已に過ぎ去り、感受(受)した想薀を対象としている、色薀は已に過ぎ去りもう無い。人は再びそれを体験しよう、再びその色薀に触れようとする意志を持つ。つまり、また再生する、リピートする、輪廻する(行)ための努力を行う。同じような条件づけ、同じような環境を目指すのだ。それを再び体験しようと、恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ねる検索エンジン(識)が働き続ける(末那識)。末那識はそれに至るまでの道筋を選択し続ける。つまり、人は無味感想な物質の形態=色には反応せず、再び感受したいものを想薀に留めているのではあるまいか?


色(モノ)を感受(受)して記憶された濃い印象表象(想)に対して志向作用(行)が生じ、識(検索エンジン&特化した認識システム)となる。


色:美味な料理、フルコース


受:食べる、味わう


想:味の記憶、イメージ、印象、表象、連想


行:再び味わおうとする。リピートする。志向性が生まれる。その再体験を意志する。輪廻する。またここに戻ってくる。再び料理店に並ぶ、自分で工夫して創る(店に食べにいくはプロセスの短略化にすぎない。) じつのところ識(検索エンジン)を創り出している。その意志した再体験のため特有の検索エンジンをカスタマイズして形成する。


識:再び、そのフルコースを食べ味わうための検索エンジン。店やレシピや食材や食べごろを検索する。これは恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ねる。それは例えば人の記憶システムや思考能力がリピートの根本欲望のために発達、拡張した…シャコの目の360度認識システムやその色彩細胞、犬の嗅覚、フクロウの3次元ソナー耳、蝿の複眼の300ヘルツ光学システムによる時間感覚分解能力もそうですが、これらは飢えや危険を逃れ餌を捕まえ生物的安息=苦痛を避け快を得る為の検索エンジン(識)の発達と言えるでしょう。人はとくに触受をリピートする欲望があり、そのために記憶が発達している。快感や幸福をリピートしようとする。エサが無ければ罠にはハマらない。ちなみに人間の世界の検索エンジン、Googleなども個人の好みの偏りを反映して特化しています、Googleやsiriのほうからあなたの欲求した探しものをピックアップしてきたことありませんか?


末那識と志向された対象。末那識は単なる検索エンジンですが、対象を追いかけるうちに主体意識のようなもの(我)、やその対象を追いかける生物としての形態や認識システム(名色)を身につけます。それも再びまた体験したい何がしか触受のため、自らを形成し変化させている、そのような条件をそろえる。自らの願望を世界に孕ませ、自ら生まれ出るようなもの。