紅茶の味のするコーヒー

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昔、コーヒーを紅茶の味に変える超能力というのが流行った。たしか、村上龍の「超能力から能力へ」という本に出ていたと思う。「味」というのは奇妙なもので形がない。例えば、フランス料理の技法で食材をムースにするというのがあって、またそのような機械もあるのだが、形、形態的にはどうみてもムースなのだが、肉や野菜の味がするのである。

様々な食材は六根のひとつ「舌」に〈触れ〉て六境のひとつの「味」というものを感じるわけだが、同じ六境の「色」(形態)は変わりうるのである。

つまり、例えば林檎から林檎の味を抜いて肉の味がすればどうか?それは林檎と呼べるのだろうか?ということである。では紅茶味のコーヒーは?それははたしてコーヒーなのか?コーヒーという存在がだいぶあやふやになりはすまいか?



コーヒーという存在




では、十二縁起における〈六処〉のひとつ前、〈名色〉から林檎を見ると、どうだろうか?倶舎論においては〈名〉は五蘊において〈色〉以外の〈受想行識〉の四蘊とされる。

つまり、〈色〉は対象の物質面、モノとしての形態である….モノとしての林檎。ちなみに〈色〉はサンスクリット語で〈ルーパ〉と言う…形態の意味である。〈名〉はそれを見る側、志向する意識〈受想行識〉とされる。つまり、感受作用、表象、林檎への志向、区別把握記憶、すべてが〈名〉サンスクリット語で〈ナーマ〉とされるようだ。

私ははじめ、〈名〉は〈存在〉の物質面形態面ではない意識面での情報(名称やそのモノの歴史)かと思い、それらを主体から区別把握するのが〈識〉かと思っていたのだが。それだと〈名色〉が客体化して都合がよいからである。しかし、倶舎論によれば〈受想行識〉全てが〈名〉となるので、〈行〉や〈識〉のような、意識の主体側もナーマなわけである。

縁起にはそういうところがある、主体とそのハタラキと客体を、別々のものとはしない。どれか欠けると全てが成り立たない。コインの裏表のようなものだ。

記憶(識)を構成するブロックが名色…つまり名=受想行識と、色=対象、形態。これは意識側とモノ本体とも言える。モノ本体は実在が証明できないから〈空〉と言うのか?というデカルトやカントのようなドイツ観念論的空性の把握なんてしたりしてね。

もう一度言うが、前に考えていた時は、名を言語的概念的名称的なもの、色を形態的物質的なものとして客体化されたものとしていた。主体側に属するものとして認識行為(行)と、認識結果(識)と捉えていたのだ。〈識〉は〈名色〉の2因子から構成されているとしていた。

しかし、〈名〉が〈受想行識〉を含んでいる以上、認識結果(識)の構成因子の片割れとは言いがたいのではないか?つまり、〈行〉という動的な認識行為側が含まれている以上、認識結果である静的な識(記憶)の構成因子とは言いがたい。しかし、縁起により主体とハタラキと客体の因果が独立して別々に存在してないという考えならば一連の矛盾が何とかなるのではないか?

認識行為と認識結果を前後で独立したものとして区別している以上、認識結果の半分〈名色の名〉の更に四薀の1つに認識行為〈行〉が含まれているとは考えてなかった。親が孫になるようなものだからだ。しかし、親は孫になるのかもしれない。

親(釈迦牟尼仏)-本人(大通智勝仏)-孫(釈迦牟尼仏)

これは法華経「化城喩品第七」で説かれている。大通智勝仏(過去認識結果)の現在認識行為者である釈迦牟尼仏が、大通智勝仏の構成因子(子)の1つなのである。認識結果である〈識〉は名色に分割できる。半分である〈名色〉の片割れ〈名〉は4薀に分割される。1/4である。色は4薀のそれぞれに対応してある。つまり〈識=名色〉には1/8の認識行為〈行〉が含まれているとは考える。認識行為と認識結果を合わせたものにとっては〈行〉は1/16となる。認識行為と認識結果は双子のように対となっている。即ち16番目の子〈行〉が釈迦牟尼仏の前世となる。

前後で区別したのは、〈認識行為-行〉は〈認識結果-識〉の親だからだ。しかし、前後で区別することにより逆にこの、玄妙な化城喩品の縁起の理を見えにくくしていた。私にとって〈行〉は全く見えなく雷光の如く素早いモノで、勝手に認識結果という子を孕ませるものでなければならなかった。この表現は、ある仏教とは別の文明からの我田引水だが、ご容赦されたし。

〈行〉の解釈はもう1つ考えがあった…〈色:コーヒーという存在〉と〈名:受想行識〉だが…コーヒー本体であるところの客観的事実存在〈コーヒーであるところのコーヒー〉は証明できないが、〈何〉がコーヒーと呼ばれているモノの味がして、〈何〉の味と形態や色彩が記憶に照合するのだろうか?そこで、私は、客観的事実としてあやふやなコーヒーを〈何〉とせずに、コーヒーをコーヒーとしているものが〈行〉だと思っていたのだが…。これは蜃気楼を城にするような作用ではあるまいか?