〈復活〉と魔術の起源

こっちに名前を間違えて呼ぶやつを放置するとこちらがその名前であることを受け入れたとか誤解される。だが、それにより変化する前のこちら〈エビ〉が前提としてあるということが証明される。


こちらの両コメカミに愛する者の掌ではさみ…例えばこちらをイエスに変化させたいならば、変化させたい名前を唱えるらしい。おまえはイエス、おまえはヨシュア、おまえはイエサス、おまえはイエッサ、おまえはイエヤス…暗示波。ちなみにポルトガル語のJESUSはイエヤス、と聞こえる。イエズス会のおかしなところは、それにちなんだ名前を大名などの権力者に与えたこと。家康(イエヤス)、光秀(hideハイド-隠れた光)、秀吉(hideハイドヨシュア)、勝家(イエスは勝つ)、利家(to 死 イエス 槍の名人)、家光(イエスは光)…。


思いこみ暗示の名が、イエスやイエヤス(家康)でない場合もある。たいてい、女の声でおまえ●●?●●?●●でしょ。●●…いえ違います→彼が受け入れない。●●…●●でしょ。ねぇ●●…●●!いえ私はエビです→ジャマァァ!こんな感じである。人違いするということは、目が見えていないのだ。盲目だと兄と弟すら間違える。聖書のヤコブの話しにあったなぁ、彼の年老いて盲目の父と、毛深い兄弟と、すり替えをけしかける母の話し。それはそれとして、盲目ということは…目に見えない気配のみ、というわけだ。●●?と名前を聞いてくるということは実は認識がものすごくあやふやで、どういう状況か…相手は顔を知らないか、そもそも見えてない。


再び帰らないものへの、復活の期待がそうさせる。相手の両コメカミに手を当てて、何らかの変化を起こそうと、繰り返し暗示、干渉波。つまり、その変化させる前の、自然な状態(例えば死)が大前提としてあり…その元の状態を認めたくないので、繰り返し呼びかけたりクリスマスミサやお盆をしたり、イタコをしたり、魔術や科学に頼る。変化させたい、とはそういうことだ。〈意志による変化〉の技の誕生の動機というか原因として〈死人を蘇らす〉ということがある。


蛇足の変化、こちら岸の意志による変化させる技に対して、逆に変化させる技をかける前提の元の状態が証明され、元の自然な事実(エビ)として踏ん張るとジャマぁとか言われる。


復活の思想は魔術の根源であり、キリスト教の預言もそれに含まれる。


再び帰るかもしれない、再び帰ってきてほしい、その想いにつけこむわけである。復活や反魂や転生は認識のトリックであり、無理やり別の名前で呼ぶことにより、本来ぜんぜん違うものに反応を強制ないしは演技させ、彼は受け入れただののたまう。去った者に再び帰ってきてほしいならその名を唱えたまえ、というわけ。いつのまにか蘇生させたい人の名がすり替わる、蘇生屋の名前に。ラザロの名前を呼び泣いて喪に服するところが、いつのまにか驚きに満ちてイエスの名前を連呼するわけだ。じっさいに蘇生されたらまぁそうなるが。だがしかし、イエスが去ったら誰の名前を呼んだら戻ってくるのか?教会?それとも自称イエスの非ユダヤ人?(たくさんいる。)


あなたは今、〈彼〉なのですか?などという愚かな質問。質問者はおかしさに気づかない。おれはイタコじゃない


グロソラリアなのか、片言で彼はなぜ来ない。と繰り返す教会の外人。逆に質問者のところに行ったら死ぬ気配がする。教会の納骨した地下聖堂のような濃厚な死の気配。あちらさんは同じ周期で呼ぶ(ミサ?)。いつのまにか向こう側に近い教会のものが生で、生きている彼が死んで去ったほうになっている。教会は復活を願う感情につけこむ仕掛け。主の復活を願う自らの死に気づかない死者たちの集会。名前が同じと見なされた男がエクレシアの奴ら黙らしといて、に対し、この犬(異民族)ナニ言うとか片言で怒られる。名前だけ同じでもダメなんだな、と理解した。