我思うゆえに我有り、はカナンである

<創世記第9章>
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」
また言った、
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」

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喩えて言うならば

脳が有るからこそ認識あり、しかしその認識あればこそ脳の存在が確認されるが、認識行為、見る、知ることよってしか脳は確認されない。

因果的〈父〉である脳が無ければ因果的〈子〉である認識行為は生じない、脳が有るから認識行為がある因果関係である。認識行為の発生は脳そのものの存在より因果的に〈遅れ〉ている。孫結果である認識そのものはさらに遅延している。

認識している〈行為〉とその結果により遡求的に脳の有を確認しうるにすぎない。確認した認識行為の〈子〉が認識である。つまり、脳の有に関しては認識より2つ前、認識行為より1つ前にあるので、一次有認識が欠如している、アプリオリなものである。アプリオリなものは確認しようがないので無明である。

父の衣(認識機能)の有無を分別(確認)するには、子である〈認識機能の有の結果であるところの認識のハタラキ〉に依る。逆転現象である。子であるハムが父ノアの衣の有無の確認行為をする。が、その確認結果である認識はカナンである

我思う(ハム)ゆえに、我有り(カナン)

デカルトの哲学は、本体について考察したので呪われたのかもしれない。彼の子どもたち…カント、スピノザ…

ちなみに、肝心の呪いのとき、ハムが無記なわけだが…知られる対象はすでに全てカナン(認識)なのだからハム(認識行為)とは言えない。

そういえば認識のハタラキは稲妻より速いので、マリリン・マンソンの使うあの稲妻マークは〈知るハタラキ〉を指しているわけである。何がルシファーとされているか、わかりやすい。禅の文句でもそのハタラキは稲妻のよう…とか言われる。素早すぎて呪う対象として捉えられなかったので、無記とか 笑

ゼウスのシンボルも稲妻なのだが〈知る行為〉と前後して認識前、認識後…つまり未去、已去の際立った変化が生じる。おそらくこれが時間=クロノスであり、ゼウス(知る行為中=去時)が飲みこまれクロノス神の腹の中にいるの意味であろう

ノアの衣を認識機能…六処にしたり、行(行為)、認識(識)にしたり、仏説を応用しすぎた、と思う。兄弟たち、セムとヤペテを名(名称)と色(形態)にしたら完ぺきなのだが…ノアからすると外界を向いて認識機能を着せるわけだ。そういえばこの話しは二僧巻簾の問答そっくり。