龍樹の思想を学び始めております。
ということらしいです。
私ははじめこの2番目の〈去る〉をカント的な主観意識…のようなものと捉えました。つまりモノに対するこちらの主観的思考を極限まで削ると…
樹が有る…
とは言えなく
樹!
と言ってさっさと引っこむような禅的な態度です。
〈すでに生じたもの、未だ生じないもの、現在生じつつあるもの…は生じない〉。それら生じるがすでに付随した生じている主体は、それが二重に生じる、と言われることを拒否する。モノ主体に付随した三世の生じる、により、2度目の〈生じる〉という言葉は幻のように実在しなくなる。1つのモノ主体に2つのハタラキは蛇足なのだ。
つまり、ナーガルジュナは言語の再帰性を否定しているのだ。
〈A〉は Aだ。
これが言語の再帰性であります。
〈何がしか〉は Aだ。
とも言えます。最初の〈A〉や〈何がしか〉の代補が A という言葉なのです。それは〈A〉や〈何がしか〉の現前の不在を意味しており、〈A〉や〈何がしか〉は、2度目のAにより遡及的に確認されるわけです。しかし、龍樹は2番目のこのAを『蛇足』として除外します。蛇足であり主観的な幻なのです。
〈A〉!
というわけです。
しかし、龍樹はさらに〈A〉は独立してそれ自身で充足した存在ではない、とします。
例えば〈A〉を樹とすると…
樹には予め付随する隠れた〈有る〉があり、それをモノ主体である樹とは分離できない。不二であります。分離すると、モノ主体であるところの樹は有ることができません。しかしこの〈有る〉という働きは、モノ主体である樹とはイコールではありません、不一であります。こういうのが龍樹の発展させた〈縁起〉思想であります。
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