マインドコントロールとバンパイア

  前回の補足説明です。あまりにもわかりにくいと思われる《精神的圧力をかけるような師僧》について。これは、いわゆる宗教全般、とくに新宗教、神道仏教イスラムキリスト問わず…や、左翼系政治団体、自己啓発セミナーに見られる方法と申し上げておきましょう。


  とくに、X JAPANのTOSHIが洗脳されていたのは記憶に新しいです。TOSHIの本は読んでいないものの、ネットで調べた情報では《フィードバック》という呼び方で、暴力的洗脳があったと記憶しております。マインドコントロールというやつですね。オウムでもありましたが、《カルマ落とし》不眠不休のお布施過労働、栄養の無い食べ物、《仏とは何か!》と何十回も問答したり、薬物、電気ショックなどをするうちにヘロヘロになったり。 

  TOSHIのいたホームオブハートや、他にはマインドコントロール殺人で有名な北九州監禁殺人事件では、妻に夫の首を絞めさせる、妻にTOSHIをアゴと呼ばせて殴打させる、子どもに命じて親に暴力をふるわせる、通電(電通?)と称して電気ショックを与える、などがありますね。人の心を折るにはどうするか、考え抜かれた方法です。赤軍の《総括》や《自己批判》と同じです。集団で1人ダメなやつをディベートで選び、血祭りにあげるようです。それによる恐怖心でゲリラ集団をまとめていきます。 

  子どもに命じて親を殺させるのは、共産ゲリラや、ISIS(イスラム国)、ボコハラムなどがよくやります。彼らは少年兵が欲しいからです。

  吐き気のすることに、教祖さまは《唯一神》とか呼ばれていい気になってるわけですが。信者たちは横一列にされ、競わされ嫉妬心を煽らされます。嘘をついてはいけない、と教えこまれ、何かを発言するにも《解答権》なるものを教祖の自称《唯一神》に与えられるまで、答えてはいけない、というクソみたいな決まりがあり犬みたいになります。クソ宗教です、糞。こういうクソ宗教の信者には特徴があり、頭の中の《定型文》において、目的語が全て《教祖の名前》になっていることです。 

  そういった文脈で、バックワードや低周波で、〇〇をぶっ飛ばせ!とやる洗脳手法もあるよ、と。 

  こういった宗教団体に反撃するには、ベッキー菩薩が身をもって示されたように、センテンス・スプリング砲しかないでしょう。教祖がゲスの極みとか、女を買いに行ったとか、清原みたいな感じだったとか情報と証拠があれば文春か警察にチクればいい。日顕さんてクロウ事件でヤられてましたけど。あと、どこかの銃(GUN)マニアの枢機卿もそうですね。

  で、どういうわけで《教祖》がそういったことを手の込んだ方法でやるかというと、《信者》の《気》エネルギーを吸収してるからなんですね…食っているんです。どういう理由で信者にストレスを与え続けているか、と言うと、トマトの水分を抜くと糖度が増すのと同じ原理です。ストレスからの唯一の出口、唯一の救いを《教祖》にすることにより、教祖への崇拝感情のエネルギーはより美味となり、量を増します。先ほどの目的語が《教祖の名前》になるというのも、教祖しか見てないからです。エネルギーは全て教祖へ流れます。他化自在天や羅刹や荼枳尼天が人を食うのと同じように、人を食う人もいるわけです。 

  この人を食う人《バンパイア》がいるということは、本来《秘伝》なんですが、じつはジェームズ・レッドフィールドさんの《聖なる予言》という本にあからさまに書かれています。ベストセラーになったので逆に見過ごされがちですが、この人はグルジェフをキチンとふまえた内容です。さらりと水素振動密度についても書いてますし。西洋の精神世界本ではロバート・モンロー本に並ぶ名著だと思います。 

  本来なら、予言の知恵のように、人から賄う方法ではなく、他に源から《気》エネルギーを吸収する方法がありますが、それは《聖なる予言》を読んでください。 

  実は、釈尊が《布施》を強調したのも、飢えの極限での《例の邂逅》も、この《気》エネルギーを食べることがベースにあると個人的には睨んでます。 

  グルジェフはこの人々の間の《気》エネルギーの交流を《印象》の呼吸、と言っていますが…はたして意図的に人を食う《バンパイア》については示唆しているかどうかは謎です。コレの続きは『食の次元2』で書きたいと思います。 

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コメント: 15
  • #1

    OHBA (木曜日, 11 2月 2016 10:49)

    とあるお坊さんが、釈尊の邂逅に関して、極限の気のエネルギーを醍醐味と解釈してしまっていました。
    自分を見失い続けていて、気力を出すのもやっとで、何かを求めるほんの僅かな想いだけが自分を保っている状態だったとします。そうした者が、自分自身を見出すと、自信に満ち活力が溢れます。そこで、もっと負荷を掛ければ、自分はもっと強固な自分になっていただろうと確信してしまいます。これは釈尊が後に否定したものの、かつてしていた苦行と同じでは無いでしょうか。こうして得られる境地には、限りが無さそうです。仏道は、上が無いという無上道との表現があります。
    本来の布施とは、不思議なのだろうと思います。布施行は徳行だと言われています。別に徳を積んだと言う自覚は無く、自分に劇的な変化も起こらなく、布施を受けた者から導かれたというのも相応しく無く、自らいままで智慧の書だと思っていたものが、これは違うとスッキリして、その書のことを把握した訳でも超えた訳でも無いのに、安心します。
    世間には教祖や教団に布施をしたという話は山ほどありますが、後になって明かされるのは壮絶なエピソードばかりです。歴史的には禅師たちが神経症を患ったりと、公案は一般的に取り扱いが難しく、害の方が大きいかも知れないですね。

  • #2

    EBI (金曜日, 12 2月 2016 12:44)

    タイムリーでした。遠い噂の便り(顔書)で昔の知り合い(格闘家)の知り合いが日蓮宗(中山法華経寺)の大荒行を満行したことを読みました。今回で3回目らしく大黒さんになったとか。元暴走族らしいです。大荒行については、苦行ということで、昔、立正大学にいた時に、かなり調べていました。

  • #3

    OHBA (日曜日, 14 2月 2016 10:34)

    壮絶な大荒行の知らせは、自分のところにも入ってきていました。
    無上道と言いますが、具体的に何をすれば良いのか?と、まるで手がかりが無い側面があると思います。そこで誰かによって、これが修行法だと提示されれば安心しますし、提示する側のシステムも、その修行法も頑張れば何かありそうだと感じさせるようなスタンスになります。とどのつまり、手がかりがないと人は苦行に行き着くものでは無いでしょうか。
    しかしながら、知的障害があったとされますシュリハンドクは、釈尊に会いに来た人達の靴磨きをしていたことが、かの尊者にとっての真の修行であったのか、ある時に解脱なさったと聞きます。人生のハンディを負っているようにみえても修行を見出されていらっしゃって素敵な御方です。
    無上道は、この上無い道なのですから、誰もが歩めるハズのものであってこそと考えますが、苦行とは違って修行している実感が特に無いものかも知れません。(シュリハンドクに於きましても、これこそが私の修行だと回想しているような発言を見たことがありません。)

  • #4

    EBI (火曜日, 16 2月 2016 00:18)

    靴磨きでしたっけ?ホウキで掃いていましたっけ?
    昔、茗荷が余ったので、丸ごと2つ食べてハイになったことがあります。

  • #5

    EBI (火曜日, 16 2月 2016 00:25)

    そういや清掃業でしたね私。わはははは

  • #6

    EBI (火曜日, 16 2月 2016 09:27)

    名称の解脱し過ぎて、名前を忘れたんじゃ…茗荷、シュリハンドク。

  • #7

    Ohba (水曜日, 17 2月 2016 10:36)

    一般的には箒とされていますが解脱の機縁が何だったのかが曖昧です。私的には靴磨き説を指示しています。(その説はごく一部かも知れませんが。)箒では、中国の香厳のエピソードが印象深いです。

  • #8

    Ohba (水曜日, 17 2月 2016 10:44)

    清掃行。無意識でした。
    茗荷のエピソードは、名称が何のことかという誤解(誤って理解されてしまった)と捉えますと、四苦の生で表されます先天的に知的障害があることの嫌悪は人類にとって、非常に根深いものだと感じます。

  • #9

    ohba (水曜日, 17 2月 2016 10:51)

    むしろ、争いを未然に防ぐような言葉を用いるようになったり、うわべの言葉で揺れ動かされないと考えます。尤も、平安に役に立たない空虚な言葉を忘れる(動揺させない)ところを物忘れに掛けたのかも知れませんが。

  • #10

    EBI (木曜日, 18 2月 2016 04:03)

    古代インドに靴ってあるんですか?(´・Д・)」

  • #11

    ohba (木曜日, 18 2月 2016 09:07)

    たしか身分の高い人しか靴を履くことが無かったと思います。
    検索しましたら、宮廷靴の存在がすぐ出てきました。

    このような釈尊に関した逸話があったように思います。(もしかしたらヘルマンヘッセの小説かも知れませんが、、)

    とある男性が森のなかで高貴な人(釈尊)が佇んでいるのを見つけた。貴賓のある様子から身分の高い方(どこかの王様?)と考えた。だが不思議なことがある。一体なぜ従者もつけずに裸足でこんな場所にいるのであろうか。そこで、高貴な人(釈尊)に近付いて尋ねた。・・・略・・・私は、法の王である。

  • #12

    EBI (木曜日, 18 2月 2016 19:54)

    法の王が裸足なら、いったい誰が彼の弟子で靴を履くのだろうか…⁈ 来賓?
    タイの坊さんが裸足で托鉢しているので、みんな裸足だと思ってました。
    宮廷の来賓なんて来るのすごい少ないと思いますし(一年に数回?

    僕は便所掃除だと思いますよ。最近、便所掃除させられること多く
    以下は抜粋です。

     糞掃衣という文字(サンスクリット語から中国で翻訳された)を見ますと、糞、という字がありますから汚いという意味はわかりますが、次の「掃」はどういう意味なのでしょうか。そのまま読みますと、糞を掃除する、ということですが。

     不可触民について調べていました。不可触民の女性の仕事に、「便所掃除」があります。私はインドに行ったことがないので、実体はわかりませんが、インドでは下水の準備は遅れていますので、水洗トイレはありません。それで、排泄物を毎日掃除をするようです。それが、不可触民の女性の仕事なのです。つまり、便所掃除をする不可触民の着るものが、 糞掃衣、ということになります。

    どちらにせよ、現代に仏の卵がいても、知的障害者か精神障害者にしか見なされないかもしれません。

  • #13

    ohba (金曜日, 19 2月 2016 12:14)

    諸国の王たちも帰依していたそうですね。(仏舎利を分骨しましたし)
    どこかの王がブッダに会いに精舎にやってきた記述を見たことがあります。
    宮殿に招いて食事を施したことだけでは無さそうです。

    アンバパーリーという名の娼婦がいたらしいですね。ブッダへ供養を申し出た後にリッチャヴィ族の青年貴族たちから供養の申し出があったのですが、ブッダは先約があるからと受けられないといったエピソードがありました。どのくらいの貴族が靴を履くことが出来たかは勉強不足で分かりません。

  • #14

    ohba (金曜日, 19 2月 2016 12:33)

    仏の卵がいるとしましたら、結構普通と言いますか人格者では無いでしょうか。
    極度の精神病や異常者であれば、徳行を為すことが困難だと思います。
    ビンビサーラ王が覚る前のブッダと会った時に、人間性を見込んで援助の申し出をした時の受け答えは、人格者だと感じました。王は修行者に型通りの挨拶をした後、こう述べたそうです。

    ビンビサーラ王「あなたはまだ若い青年にお見受けする。高貴な面立ちをしており、よい家柄の王族ようにお見受けする。あなたに財を提供したい。どうか受けて下さい。一体あなたは出身地はどこなのですか?」

    釈尊「王様、・・・中略・・・釈迦族です。王様、私はその家から出家しました。私は諸々の欲望を求めている訳ではありません。諸々の欲望を煩いとみて、そこから離れることを安穏と見て、修行に励もうとするのです。それが私の喜びとするところなのです」

  • #15

    ohba (金曜日, 19 2月 2016 12:58)

    糞掃衣は、サンスクリット語:パーンスクーラ「ぼろきれの衣」の意味でのようです。もともとは墓場で捨てられていたぼろきれ(ごみためや路地という説明もあります)を繋ぎ合わせたものだとの説明があります。岩波の仏教辞典では、「糞掃」は「パーンスク」を音写したと説明されていますが、それで音写になっているのでしょうか。中国の影響があると思います。あと数珠なんですけど、釈尊在世のときに出てきていないく西暦2,3世紀頃から登場した噂があります。偽経では念珠の功徳が説明されているみたいですが、中国影響なのか、密教の影響なのか、謎です。(インドでは仏教外で「念誦の輪」というのが存在していたそうです)