限定

 生は空間の"限定"か?意識は"限定"されている。生、この肉体を脱することもかなわずに、檻の中に潜むのは、死への方向転換により、空間的自由を獲得することがおそらくは道の初歩だと知ってからは、デーヴァからすればあまりに少ない残りの人生、苦しい家計をやりくりしているような感覚にも襲われる。が、方向転換すれば、さらに広大なスペースへの憧れに変わる。

 

 おそらくは死への方向転換が、最初の鍵であり、肉体を脱する幽体離脱や、死を体験するような無茶な瞑想も修行が重要視されるのは、満天の星空に満ちた信じられないほどの広大な宇宙、この広大な死を実感するためではなかろうか?ブッダの瞑想修行で、仙人の最初の難関で"空無辺処"なるのものが空間のあらゆる限定を脱しているのは、死の広大さ・・ということだろうか?

 

 しかし、死して8大地獄、16小地獄に堕ちる人間は死してさらに重力にやられ"限定"される。死ぬだけでは駄目なのだ。善知識、徳を積まなければ・・。

 

 人格という檻も限定と思えば、忍者の扉のようなカラクリにより、脱獄できるものは何者か?ということを知るのも勉強にもなるのか・・というか、勉強しているのは何者なのか・・流水そのものにとっては、勉強は意味をなさぬのか悩むところだ。しかし、よく考えれば、はしごは必要であるが、そこ登ったらはしごはいらない、と和尚が言っていた。また、違う誰かの弟子のような坊主が現れて言った、教えは受け継がれ衆生のためになるではありませんか?もう1人の弟子が文書や知識は人という衆生にしか通じぬではないか?と問えば、和尚が戻ってきて言う、人間以外はア・プリオリに全部知っておる、とか。この和尚はよく、ローマ字で呼ばれていたらしい。

 

 喩えて言うならば、私有財産では個人はパーテンションを持つことが許されるが、もしも流水のごとき"お金"に意識があるのならば、そのパーテンションを自由に抜けられる。そう、"忍者のかくし扉"のようなカラクリである。主人公が"お金"であることに気づいたら、お金にとっては、環境の因子が変わるだけである、と貨幣じしんが納得するがごときものだろう。とはいえ、世界そのものが私有財産の所有(ママカーラ)が禁止され、共有財産になる、共産主義のようになるためには"革命"が必要である。これを、ニュー嬰児の人たちは"アセンション"とか呼ぶのだろう。