墓から蘇りしモノ

 聞いた話しですけど、つき合っていた男をフるたびに、心の中に男のお墓を造る瞑想法があるそうです。なかなかナイスな方法だと思いますが、墓がやたらたくさんあっても何かおそろしげな・・。墓から蘇った男はゾンビなのでしょうか?笑

 

 ゾンビといえば、死人、または死人のような人たち、と言った意味で使われてますが、最近、ジャック・デリダをちょこちょこ読んでいます。なんでも、ゾンビは生きているのに死んでいる、という両義的な存在らしいです。そして、ゾンビは決定不可能性ということを表しているらしく・・アレかコレかの対立を脱している・・。二項対立なんてのはどこにでもあり、俺かあいつかどちらかが優れているなんてのが、人間心理の基本になっていて、アレがたつならこっちは奴隷みたいな、そんな心中の争いがあったりする。しかし、奴隷は無我なんかではなく、結局「奴隷」なる自分がいるために、いじめっ子ーいじめられっ子の二項対立が生ずる。

 

 いじめの構図のようなものが成り立つ。不思議なことに、フィールドにおいて王様が決まってしまうと、全体のエーテルのフィールドのようなものが「王」の味方をするわけである。いじめている「王様」の価値観が善になるわけだ。とすると、いじめられっ子の心が自分に嘘をつきはじめるのである。「奴が正しい」というふうにである。このような状態はいわゆる、呑まれているという状態である。どういうわけだか、集団無意識はそんななっているらしい。宗教なんてのはそれを助長する。教祖が信者をいじめているのに、「導いている」「感謝しなさい」みたいなアホなことを言われるのである。

 

 いじめられている奴が自分のポジションに納得してしまったら、それは社会となって、そこにもはや二項対立は存在しない。有機的な共同体のようなものになってしまうのだ。「自殺の練習」とかいって自殺したやつも、悔しいとか、無念だ・・というわけでなく、「何か集団の雰囲気にだまされて」自殺したのではないかな?と私は思う。まぁ、日本社会なんて昔から王様ゲームだけどね。

 

「王」がすべての価値観の元になる、二項対立において「いじめっ子」ー「いじめられっ子」の構図、ボス猿の交代劇にみられる、喧嘩に負けたほうの子供はすべて殺され、女は勝ったほうに乗り換える、負けたやつは全て奪われて殺される。二項対立においては必ず「勝者ー王」と「敗者ー従属」という構図が成り立つが・・この従属項を根底において、全体の構造を造りなおす、ってのがデリダの戦略だった・・と思う(うろ憶え)。この手の「転倒」に成功したのが、ご存知キリスト教であり、「いじめられっ子」が「殺されて」「復活」した、まさに「ゾンビ」的存在としてイエスは君臨しているのである。キリスト教の戦略は見事に成功し、蘇生したゾンビは「メシア」となった。