妙法蓮華経五百弟子受記品第八私的解釈

 さて、五百弟子受記品です。ここでは菩薩が大乗の秘密の教えを持っていても、それをひた隠し声聞であるかのように振る舞うものが登場します。自ら『これ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠し』というものたち・・縁覚や声聞、阿羅漢たちです。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を示すこともあれば、つまりは三毒が因のような教え・・の場合もある、(成功するぞ、最高ですかー!よしやるぞ必ず勝つなど)、または邪見の相・・邪教と思える場合もある、ということ。

 

 そして、あの話しが出てきます。五百の阿羅漢たちは悔いて釈尊に述べます・・例の襟の裏の宝珠の話しです。ある人に友人が襟の裏に宝珠を与えます。しかし、起きている彼にではなく、酔っぱらい眠りこんでいる襟の裏に宝珠を縫い込みます。しかし、友人は気づかない。乞食のような日雇いのような暮らしをして、数年後、友人に会った時に友人は嘆きます。あぁ、宝珠に気づいていればそのような暮らしせずにすんだのに・・。

 

 と、ここで私も邪見の教えを説きましょう。さて、その友人が目覚めていないから悟りの宝珠に気づかない・・とか、襟の裏あたりに重要なチャクラがあるという説もあります。が、ここではそれとは別のある仮説について書きます。本人にも気づかない宝珠を友人はなぜ渡すのか?最初から叩き起こすなりして渡せばいいものを・・?宝珠をある種の『記憶』としてみます。と、それを本人にわからないところ・・襟の裏に縫い込むのは、その『記憶』が危険だからです。尋問されたり、拷問されたり、あるいは心の中を覗き込むような能力を持った者に、発見されないようにです。これは、記憶照合システム、いわゆる『暗号』かもしれない。

 

 また、声聞は大乗の教えについて知っていても、知らない、仏道から去ること甚だ遠し・・とやるわけです。これは、何かを隠しているわけです。何らかの弾圧を避け、『大乗なんて説いてませんよ、というポーズ』をする必要があったことを示唆しています。法華経の作者や鳩摩羅什、三蔵は『忍者』的な人なのかもしれません。

 

 なぜ、そのようなことになっているかと言えば、おそらくは『法華経』なるものが『何者か』に弾圧されていたとも推測できます。仏教が廃れて、ヒンズー教がインドの主流になってから、ヒンズー教または、そのほうが都合のいい当局の弾圧があったかもしれない。また・・それは『人間でないモノ』『第六天魔王』なのかもしれません。

 

 おそらくはこの宝珠は友人と二人でいないとわからない性質のものです。この友人はブッダかもしれません。しかし、もうひとつ仮説をたててみます。この友人というのが『もう一つの法華経』としたらどうでしょうか?法華経じたい他のお経より読みやすいものの、逆に最も難解である・・と言われており、私もそう思っています。法華経じたい化城なのではないか?と時々思います。と、『もう一つの失われた法華経』と2つ合わせて読むと始めてわかる、暗号のようなものともとれます。それは、まだ発見されずに敦煌、チベット、または日本のどこかの遺跡に埋もれている埋蔵教典なのかもしれません。

 

 そもそも言葉じたいが、一人では成立しない、二者間で成立するものと考えれば、一なる言葉を分けて二人の人間が成立するのです。と、なれば友人が来て初めて『わかる』類いの『言葉』こそ『真の言葉』かもしれません。真の言葉と書いて『真言』と読みます。意味性そのものが人ひとりでは成り立たない、二人以上でないと成立しない類いのもの・・ともとれます。そもそも伝説によれば、大日如来ことアフラマツダは魔王アーリマンとの闘いにやぶれ、粉々の光の破片となっています。これを『光の記憶の破片』と考えると・・合わせて始めて『整合性』を持つ記憶システムもあるということです。