妙法蓮華経化城瑜品第七私的解釈(壷中天)

 妙法蓮華経化城瑜品第七において、釈尊はまず過去無量無辺不可思議阿僧祇劫前の「おはなし」をはじめます。大通智勝如来という仏が「好城」という国(場所)の「大相」という劫(時間)において成仏したという「おはなし」でありますが・・。このおはなしをするという行為はいわば、「壷」をセッティングしたということであります。この「壷」を造った、さて皆さんこの「壷」にご注目・・というわけであります。そして、「壷」の中でストーリーは続きます。

「大通智勝如仏は寿五百四十万億那由他劫なり、その仏、本道場に坐して、魔軍を破しおわって・・」と梵天、諸天が願わくば法を説きたまえ・・と十小劫にわたって供養するのですが、そのとき大通智勝如来が出家する前に16人の子がいるという話しになります。これらの16の子は8つの方角に二人ずつ双子のようにいまして・・となるのですが、16人目の子供が、釈尊じしんであることが明らかとされます。と、この明らかになった瞬間に、壷(ストーリー)の内と外がつながりましたね?

 

 話者であるところの釈尊の原因であるところの前世が「壷」(ストーリー)の中に入っているのでありますが、第16子が我れ釈迦牟尼仏なり・・であると表した瞬間に、壷の内外がつながるわけです。この壷の内外がつながるというのは、メビウスの表裏がつながるということに似たものがあります。有無の有無理論でも言ったとおり、有無という概念そのものの有無は有るか無いか・・で、無いなら即座に有無が立ち表れパラドクスとなる、しかるに有るとすると、未だ有無という概念が創造される前から、有るが作用してしまうということになる、しかし、この有るというトリガーはまだ引かれていないわけであります。

 

 しかし、もし、「未だ有無という概念が創造される前から、有るが作用してしまうということになる」ならば、「有るという、結果によって、時間を遡行して有無という概念が有るという原因が生まれる」。つまり、タイムマシンに乗り自らの父母のキューピッド役になる子供みたいなことになるわけです。

 

 子が親を産み、蛇が自らの尾をくわえるが如きことなのですが、つまり、「壷(ストーリー)の中の第16子である釈迦が原因となって、語り部である現世の釈尊が生まれてくるという、子が親を産むが如き奇妙な構造がここに見られるわけであります。

 

 この、子が親を産むシステム、つまり自分の原因を、結果であるものが造り出していることは、大通智勝如来にまつわるすべての話し(16子)の話しも含めてすべては「話しの結果であるところの語り部」の創造物、「仮に造った城」であることによって明らかになります。大通智勝如来の話しはすべて「創造物」「大ウソ」「化城」であることは最後に釈尊がバラして、皆の衆、怒らないでね、説明のためだから罪ではないよね、とやっていることによって明らかになっています。

 

 

 2019.3.8 追記

大通智勝如来の禅定から10小劫後の出現した諸仏の法が化城で、深禅定そのものが仏法である、という説が浮かんできた。言葉にした法有など、虚構であるのが般若経からの筋であろう。これだと、不立文字の禅がそもそも大珍宝を得る道だとなる。「亦以不受一切法故(一切の法を受けざるを以っての故に)」と化城喩品68にはあるではないか?ということで以前記したこの私的解釈が「化城」「大ウソ」であることがバレてしまった。反省している。「有無の概念の有無」については言葉遊びによる虚構迷路である。そもそも、有無概念の有が因で有無概念が有るのではなく…法有そのものがそもそも虚構であった。法有は前後裁断されており、因果の法則を無視している。辞書に乗っている「焚き火」なる言語概念は炭になることはない。道元の正法眼蔵、龍樹の四句否定を参考にされたし。