罪と罰

 ドストエフスキーの罪と罰を読もうと思ったが、途中で止まっている。思想にかぶれた青年が金に困り、因業な金貸しの老婆を殺す話しだ。私のほうが社会にとって可能性があるからというロジックが入るのがポイント。それはそうと、途中でページを読む手が止まったのは、罪を暴きたてるというのは罪かどうか、ということでもある。小さな義務の放棄から、陰口、泥棒、痴漢、浮気、いじめ、リンチ・・ひょっとしたら殺人まで、数え上げたらきりがないほどの罪を私たちは持っているが、こういうのは巧妙に隠され、忘れられて潜在意識に埋もれているものである。普段、土の下に埋もれているそれが、光にあてられて急浮上するとき、人間は信じがたいほどショックを受けるモノである。

 

 そういったものを忘れるために、人間の脳には忘却という機能がついているわけだが、光があたると「死人が蘇る」というか、封じられた記憶がどっと出てきてパニックになってしまう。自分のでさえそうなのだから、そうしたすべての光景を見る神の視線から見るに、これは人間というのはどうしようもない生き物だなぁ・・と、神は思うに違いない。例えば、死にかけの病床において、仲間がすべて自分を憎悪の視線、断罪の視線で見ていたり、貞淑な妻がどこかの馬の骨とねんごろとなっていたり、息子の頭が愚鈍そうな動物の頭だったり、そんな光景で末期を迎えたらどうなるだろうか?しかし、そういう光景において、断罪する自分と同じほどの頭と心の力をもった仲間より、愚鈍そうな動物の頭の息子を見ていたほうが安心できるのは一面の真実である。

 

 かつて神戸では目に釘を刺すような不良のリンチがあったりした、錦糸町では殴られれば借金チャラとしてヤクザ主催の殴られ屋大会がある(もちろん重傷)。中国人の不良は仲間のリンチのさいに逃げられないようにバットで足を折る。週刊誌の編プロにいたとき取材したある話しでは、死体を埋めるときにはガスバーナーで顔を焼くそうだ。どこかの国では1万5千円ほどで幼児が売られている、不法入国者はコンテナの中で水分もなく朽ち果て、犬猫はガス室で末期を迎える・・。

 

 あくまで問題なのはそのようなことが現在進行形であること。それでも、惰性で、まぁいいや・・とすごしてしまう自分がおそろしい。

 

 四方(よも)の山々雪溶けかけて、水嵩勝る大川の、上げ潮南に岸を洗う水の音が、ざぶ~り、ざぶり・・・