カテゴリ:仏教 法華経 浄土三部経



仏教 · 08日 2月 2021
 私や、それを含めた集団が、無有愛により苦しみに満ちた娑婆世界から逃げだそうという願望を抱くとしよう。一切皆苦、全ては苦しみであるので、そこから逃れるための行為は正しく、間違っていない。問題としては、肉体の死滅が間近になると、心は精神上の延命を試みる。すなわち、来世や転生を信じ始めるのである。より良い世界、色界や無色界への転生や極楽往生を心は画策する。それでは、正しい寂滅の理解とは言えない。最近流行っている異世界転生、色界、無色界への転生、来世のパラダイスへの期待は、寂滅への正しい理解とは違う、精神上の延命行為である。  極楽浄土は巧みな方便である。インドに侵入したキリスト教に対抗して作られた浄土経典は、キリスト教の常住の天国(パラダイス)に極めて酷似しているが、阿弥陀仏の第11願の必至滅度の願、でさらりと極楽浄土に来たものは必ず涅槃(絶対死、滅度)を迎えるとある。また、一神教のロゴス的な常住思想と差異を明確にするために、第4願の無有好醜の願により、極楽浄土では故人は故人の姿をとっておらず、皆、エージェントスミスのように同じ姿とされている。むろん、仏像的な姿なんだろうけれども。故人として永遠、常住ではないのである。そして、必ず滅度がある。極楽浄土はパラダイスではなく、れっきとした修行道場なのだ…滅度に必ず至る為の。そこをパラダイス風のオブラートに包んでいるのである。  極楽浄土への往生はゴールでなく通過点の化城の如きものである。余談だが法華経は阿弥陀仏という鍵を差し込むと、よく理解できるのである。化城喩品は極楽浄土のことを言っている。阿弥陀仏は無量光と無量寿という特徴があるが、無量光は序品に表され、無量寿は如来寿量品に表される。序品では仏の白毫から放たれる光が「東」へ向かい、三千世界を照らし出す。ので、光の発生源である仏は「西」にいらっしゃるのだ。如来寿量品では、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて迦耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我は実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由多刧なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を仮に人ありてすりて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が無くなるまで、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、いなや」と弥勒菩薩等へ言われた。「東」へ行く人のスタート地点は「西」なので、ここでも仏は西方にいることが暗喩されているのである。法華経には西極の蓮華座に仏が座していることが秘められている。キーは阿弥陀仏である。阿弥陀仏は西にいる。では、西とは何の象徴であろうか?それは四門出遊をよくよく考えてみればわかるだろう、西とは死のことである。仏は彼岸、死の方向から現世に語りかけている。 西、死、無、滅度、涅槃の側に立ち、悟りということを考えてみよう。悟りは無明という根本恐怖の消滅であり、そこに至ったら子は生まれず、種子(遺伝子)も残されない。そもそも、戒律を守っていたら子は造れない。しかし、そこでいくつか疑問が出るだろう、釈尊にもヤショダラとの間に羅睺羅という子がいるということ。釈尊の子ついては、他にも優波摩那や、善星など子がいたと伝えられている。出家前にしろである。また、スジャータの子を授かりたいという願を因として悟ったこと。元殺人鬼の弟子アングリマーラに難産の妊婦の助産を手伝わせていることなどだ。遺伝子を残さない主義者だったら、そんなことはあり得ない。遺伝子を残さない主義者であるならば、種としての人類滅亡を幸せと説く宗教思想となる。しかし、仏法に「主義主張」はないだろうし、そんなことにもなっていないようだ。 「遺伝子欲求を逆手に取る」 逆に、出家前に子を成したことにより、遺伝子が安堵して、もう自分は死んでいいよ、と悟りやすくなっているののではないだろうか。スジャータは子を授かるように樹神に願をかけ、結願した。釈尊を樹神と勘違いして、お礼として乳粥を捧げた。その時、釈尊になんと言っただろうか?おそらく、儀礼をするとしたら「おかげさまで元気な子を授かりました」といった内容の表白を読むのではないだろうか?子を授かったという言葉に、かつての自分の子どもたちを授かった時の記憶が瀕死の釈尊の脳裏に走馬灯されたであろうことは想像に難くない。遺伝子欲求はそこで、自らの乗り物に死の恩赦を与えたのではないだろうか?つまり、ここで無始からの貪瞋痴の鎖は切れたのである。だとすると、乳粥に貪りを感じなかったのかもしれない。 その乳粥を原因として正覚を成就した、悟り得たというのは実に奇妙なことである。自ら子を産むだけでなく、他者へお布施して無意識のうちに生命を生かしているもの(生命の母性)が、死の至福認識に至る仏を成り立たせる不可思議さがある。