オカルト · 30日 9月 2021
かつて地上に降り立った、星の智慧を持つ者たち、彼らは喩えるなら翼ある鳥のような姿であろうか?阿弥陀経に描写された西方極楽浄土の光景には数々の鳥が出現する。彼らは皆、阿弥陀仏の化身だという。 翼は宇宙から来たもの、の比喩であろう。...
仏教 · 21日 7月 2021
★ 「HD...
仏教 · 25日 6月 2021
と、前ページで空性を非と書いたが、一仮説であるとお断りしておく。所詮、頭の中でこねくり回してもたんなる施設、プラパンチャ、戯論なのだ。...
07日 6月 2021
1≠0 有を空じたところ無となる 有-空-無 無を空じたところ有となる 空(≠)...
仏教 · 02日 4月 2021
 浄土真宗の歴史は一向一揆の歴史と言っても過言ではない。仏教徒の武装は、比叡山の僧兵から始まったが、正面きって信長などの大名と戦争までしたのは本願寺門徒だけであろう。そこには、蓮如上人の御文による、通信革命あり、また、兵器の技術革新もあった。本願寺側の戦力、雑賀衆のような鉄砲傭兵の活躍はそれに因る。火縄銃も日本の戦国時代において魔改造され、ヨーロッパ人もびっくりなものになっていたらしい。戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国であった。  伝来後に日本において引き金にバネを用いる改造がおこなわれ、それまでにはなかった瞬発式火縄銃となり命中率が向上した。すなわち、火縄の火力を瞬時に火薬に点火させるため、引き金に連動する毛抜き式弾梯の点火装置をともない、火挟みのなかの火縄を、引き金とともに瞬時にバネの力で火薬に叩きつけ点火する仕組みである。それに対し、当時のヨーロッパ製の銃は引き金が火挟みに連結する緩発式火縄銃である。ヨーロッパで瞬発式が採用されるのは17世紀にフリントロック式発火装置が考案されて以降のことである。銃身においても、日本の筒部は錬鉄を鍛造したものをベースとしており、瞬発力においても火薬の爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。  こうした兵器の革新や、そもそも武装闘争そのものの是認がなくては、一向一揆は成功しなかっただろう。百年も続く百姓の持ちたる国、仏教共和国は武装闘争により成り立ったのである。 大般涅槃経巻三金剛身品第二によれば 「善男子・正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして応に刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」 「五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く正法を護る者は応に刀剣・器杖を執持すべし」 「弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は、先世の四重五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給う。」 とある。涅槃経は武装闘争は前世の五逆の大罪すら滅すると言っている。滅罪としての武装闘争は明らかに是なのである。つまり、修行する比丘、比丘尼、檀信徒、門徒、仏教者、正法を守るためには武装して守護すべし、それは滅罪となる、と涅槃経は言っている。  しかし、仏教徒が悪い国に武器を持って立ち上がるにしろ、例えばその国に住む他の動植物や悪権力には関係ない人には配慮が必要だと思う。例えば、爆弾や放火などは、仏教弾圧に関しては全く罪のない衆生が巻き添えを食うのでダメだろう。とくに焼夷弾や原爆は土中の微生物まで死ぬので、仏教徒の闘争の手段としては最悪だろう。一殺多生は何も人間の範疇に留まったことではない。こうしたペンペン草も残らないような聖絶、つまりジェノサイドは、一神教や共産主義などユダヤ系の思想から出たものがやることである。
仏教 · 20日 3月 2021
卍 3/20は春分の日、エクイノクスにとっては名前に因む特別な日でした。この日に一向一揆の話しをするとは、奇妙な感覚がします。 卍  加賀一向一揆は1488年から1580年にかけて起こった、加賀の本門寺門徒らによる一揆。封建社会において、信仰に支えられた被搾取階級が武装闘争を起こし、百年にも及ぶ共和制の仏教独立国を維持した、稀有な例と言えよう。...
世界 · 12日 3月 2021
卍  社会が2つ以上の階級に分れ,階級間に抗争が行われることを階級闘争という。フランス革命においてはリベラルな知識人層,保守的な所有者,無産者の3つの階級の対立があった。マルクスは『共産党宣言』のなかで「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べている。...
世界 · 14日 2月 2021
 死滅への恐怖(無明)から正反対に突っ走っているのが生命体(有情)ならば、その恐怖を無くしてしまえば、生命体は存続しなくなるだろうし、種族自体が滅亡を何とも思わないのならば、滅亡は必至である。人類は恐竜のように地球上からいなくなるだろう。しかし、恐怖心(無明)は起こるだろうし、それは生命体としてしょうがないことだ。...
仏教 · 08日 2月 2021
 私や、それを含めた集団が、無有愛により苦しみに満ちた娑婆世界から逃げだそうという願望を抱くとしよう。一切皆苦、全ては苦しみであるので、そこから逃れるための行為は正しく、間違っていない。問題としては、肉体の死滅が間近になると、心は精神上の延命を試みる。すなわち、来世や転生を信じ始めるのである。より良い世界、色界や無色界への転生や極楽往生を心は画策する。それでは、正しい寂滅の理解とは言えない。最近流行っている異世界転生、色界、無色界への転生、来世のパラダイスへの期待は、寂滅への正しい理解とは違う、精神上の延命行為である。  極楽浄土は巧みな方便である。インドに侵入したキリスト教に対抗して作られた浄土経典は、キリスト教の常住の天国(パラダイス)に極めて酷似しているが、阿弥陀仏の第11願の必至滅度の願、でさらりと極楽浄土に来たものは必ず涅槃(絶対死、滅度)を迎えるとある。また、一神教のロゴス的な常住思想と差異を明確にするために、第4願の無有好醜の願により、極楽浄土では故人は故人の姿をとっておらず、皆、エージェントスミスのように同じ姿とされている。むろん、仏像的な姿なんだろうけれども。故人として永遠、常住ではないのである。そして、必ず滅度がある。極楽浄土はパラダイスではなく、れっきとした修行道場なのだ…滅度に必ず至る為の。そこをパラダイス風のオブラートに包んでいるのである。  極楽浄土への往生はゴールでなく通過点の化城の如きものである。余談だが法華経は阿弥陀仏という鍵を差し込むと、よく理解できるのである。化城喩品は極楽浄土のことを言っている。阿弥陀仏は無量光と無量寿という特徴があるが、無量光は序品に表され、無量寿は如来寿量品に表される。序品では仏の白毫から放たれる光が「東」へ向かい、三千世界を照らし出す。ので、光の発生源である仏は「西」にいらっしゃるのだ。如来寿量品では、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて迦耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我は実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由多刧なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を仮に人ありてすりて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が無くなるまで、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、いなや」と弥勒菩薩等へ言われた。「東」へ行く人のスタート地点は「西」なので、ここでも仏は西方にいることが暗喩されているのである。法華経には西極の蓮華座に仏が座していることが秘められている。キーは阿弥陀仏である。阿弥陀仏は西にいる。では、西とは何の象徴であろうか?それは四門出遊をよくよく考えてみればわかるだろう、西とは死のことである。仏は彼岸、死の方向から現世に語りかけている。 西、死、無、滅度、涅槃の側に立ち、悟りということを考えてみよう。悟りは無明という根本恐怖の消滅であり、そこに至ったら子は生まれず、種子(遺伝子)も残されない。そもそも、戒律を守っていたら子は造れない。しかし、そこでいくつか疑問が出るだろう、釈尊にもヤショダラとの間に羅睺羅という子がいるということ。釈尊の子ついては、他にも優波摩那や、善星など子がいたと伝えられている。出家前にしろである。また、スジャータの子を授かりたいという願を因として悟ったこと。元殺人鬼の弟子アングリマーラに難産の妊婦の助産を手伝わせていることなどだ。遺伝子を残さない主義者だったら、そんなことはあり得ない。遺伝子を残さない主義者であるならば、種としての人類滅亡を幸せと説く宗教思想となる。しかし、仏法に「主義主張」はないだろうし、そんなことにもなっていないようだ。 「遺伝子欲求を逆手に取る」 逆に、出家前に子を成したことにより、遺伝子が安堵して、もう自分は死んでいいよ、と悟りやすくなっているののではないだろうか。スジャータは子を授かるように樹神に願をかけ、結願した。釈尊を樹神と勘違いして、お礼として乳粥を捧げた。その時、釈尊になんと言っただろうか?おそらく、儀礼をするとしたら「おかげさまで元気な子を授かりました」といった内容の表白を読むのではないだろうか?子を授かったという言葉に、かつての自分の子どもたちを授かった時の記憶が瀕死の釈尊の脳裏に走馬灯されたであろうことは想像に難くない。遺伝子欲求はそこで、自らの乗り物に死の恩赦を与えたのではないだろうか?つまり、ここで無始からの貪瞋痴の鎖は切れたのである。だとすると、乳粥に貪りを感じなかったのかもしれない。 その乳粥を原因として正覚を成就した、悟り得たというのは実に奇妙なことである。自ら子を産むだけでなく、他者へお布施して無意識のうちに生命を生かしているもの(生命の母性)が、死の至福認識に至る仏を成り立たせる不可思議さがある。

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