"Equinox"について


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十劫の弥陀とカンブリア大爆発

前期無量寿経たる『大阿弥陀経』というお経がある。これは、今まで書いた事がら、とくに十劫正覚の阿弥陀仏について、根底からひっくり返す事がらが記載されている。


それがどういうものかというと、まず『大阿弥陀経』では、阿弥陀仏の誓願は四十八願ではなく二十四願である。そして二十四願を列記する前に、「其曇摩迦菩薩、 至其然後白致得作仏、名阿弥陀仏。最尊智慧勇猛光明無比、今現在所居国土甚快善。 」と仏の光明無比なることを述べた後になっ て、「仏告阿難、阿弥陀作仏己来凡十小劫。所居同土名須摩題。正在西方去是閤浮提地界千億万須弥山仏国。」と、成道十劫の言葉が述べられる。


何が問題なのかというと、『十小劫』というセンテンスが問題なのである。私は今まで、十劫を『十大劫』だと思っていたのだ。仏教では正確な定義は無く、大智度論には、天女が百年に一度、降りてきて14000里の岩を布でひと撫でするとして、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たない、とあるが、インドのヨーガ学派では、厳密に、人の1年を神々の1日として(360日とされている)、神々の1(360)を、4つのユガを経過すると、1マハーユガとなる。4つのユガは不等長で、1ユガ=神々の4800360024001200年として1マハーユガは12千年(神々の)である。そして、1000マハーユガを1劫とする。つまり、360×12000×1000=432千万年が1劫なので、10大劫は432億年前となるのだ。しかし、ビッグバン理論によれば、宇宙は138億年前に誕生したので、法蔵比丘が成道したのが、宇宙誕生以前になってしまう。これでは、計算不能、十劫がたんなる心理的な距離に堕してしまい、宇宙誕生より古い星であるメトシェラ星を調べたりしたものの、どうも釈然としなかったのである。ところが、『小劫』となると話しは違う。『小劫』は中劫とも言い、大劫の80分の1の時間なのだ。つまり、432千万年の80分の1なので、5400万年が1小劫。なので、『大阿弥陀経』に記載された10小劫は54千万年となる。


つまり、阿弥陀如来は54千万年前に正覚を得たのだ。これならばビッグバンの前まで遡らなくてよいし、地球だって誕生している。では、54千万年前に地球において何が起こっていたのか?実は、地球史上では、まさしく一大事が起こっていたのである。54千万年前に地球で何が起こったか?そこでは、ビッグバンにも劣らない大爆発が起こっていた。カンブリア大爆発である。これは、爆発と言っても巨大隕石や小惑星や火山が爆発したわけではなく、古生代カンブリア紀に起きた生物進化の大爆発のことだ。およそ54200万年前から53000万年前の間に、突如として今日見られる生物の「門(ボディプラン)」が出そろった現象である。ちょうど、十小劫の昔のことだ。


それ以前は、エディアカラ生物群という軟体生物や、微生物しか存在していなかった。カンブリア紀に入り、突如発生した『眼』を備えた脊椎動物に、エディアカラ生物群は食い尽くされた。それまで、骨も目も無い、パンケーキのような形の軟体生物しかいなかったのに、突如、進化の爆発が起こったのだ。


従来、「カンブリア大爆発」は、カンブリア初期に一斉に生物の全種類が出そろった現象と説明されてきた。カンブリア紀に異質性、つまり生物の遺伝子差異が爆発的に増加し、その後は減少に向かっているという説を、生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドが唱えた。グールドは自然選択では説明できない何らかのメカニズムがそこでは働いたとする。


何かが、地球において、起きたのである。仏教的な説明をするとすれば、法蔵比丘が正覚を得て、阿弥陀仏と成られた、そのくらいの変化が起きた。原始的な生物に何らかのはたらきが作用した。古生物学者のアンドリュー・パーカーは、カンブリア爆発の原因として、有眼生物の誕生による淘汰が原因であると「光スイッチ説」を提唱した。生物の歴史上、はじめて眼持った生物、三葉虫が生まれた。『眼』それは光を感受する期間であり、眼を備えた生物は、捕食や、また天敵から逃げることが容易となった。開眼、という言葉がある。仏像や位牌に魂を入れる、とされる。仏眼を開くのである。開く眼には五種類ある。肉身の所有している「肉眼 」、色界の天人が所有している「天眼」、声聞や縁覚が一切の現象は空であると見抜くことのできる「慧眼 」、菩薩が衆生を救うために一切の法門を見る「法眼」、先の四眼をすべて備えた、5番目の眼、ブッダの「仏眼」である。


54千万年前、進化の始まりにおいて、生物たちには「肉眼」がもたらされた。それにより現在の生物に近い、意識が生成された。それまでの生物は眠ったような意識だった。しかし、肉眼を開くとどうなるか?光を感受できるのである。生物は無量の光を、感受できるようになったのだ。


その後、分子遺伝学の進歩により、いきなりにこのような遺伝子多様化の変化が起こったわけでなく、カンブリア爆発のおよそ3億年前から変化の兆しがあり、繁栄のピークがカンブリア紀にあったという意見が学界での主流となった。即ちカンブリア爆発とされる、化石記録の量的なピークが54千万年前にあり、実際の変化はその3億年前から始まっていたとされる。


と、ここで読者は気づかれるだろうか?五劫思惟至成就、という言葉に。つまり、阿弥陀仏の成道の五劫昔に、未だ法蔵比丘だったころ、グルである世自在王仏の処で、五劫もの間思惟し、誓願を起こしたのだ。五劫は、計算すると27千万年前、つまり変化のあったカンブリア紀の3億年前に極めて近いのである。


さらに、推理を進めるには、この変化の始まった8億年前には、地球に何が起こったか、が重要となる。8億年前に、地球にはやはり一大事が起きていた。これは、学者たちによる月のクレーターの研究から、わかるのである。大阪大学と東京大学の研究グループは2021722日、月周回衛星「かぐや」からの観測データから、約8億年前、100km以上のサイズの小惑星が砕け、50兆トンという大量の隕石が地球と月に降り注いだことを発表した。


100km以上ということは、劫の説明において天女が布で撫でる岩の、少なくとも半分以上のものが落ちてきたことになる。これは、恐竜絶滅の原因になった隕石の3060倍とされている。


この研究では米国のアポロ計画で持ち帰られた月の砂など、複数の場所の砂が調査され、その結果、17にものぼるクレーターは8億年ほど前にできたと明らかになった。生命に不可欠なリンが、現在の濃度のおよそ10倍が海洋にもたらされたとされる。


仏や聖者は喩えをもって真実の実相を語られる。そのままでは民衆には理解できないからである。

これらの大破壊こそは、世自在王仏(シヴァ神)の処と喩えられる、現象なのではないか?十劫の昔つまり5億年4千万年前、さらに遡ること五劫つまり27千万前に、81千万年前の大破壊を仏は巧みな譬喩で、世自在王仏(破壊神シヴァ)の相と喩える。その時に、法蔵比丘とされる何らかのはたらきが、この地球に訪れた。そして、五劫(27千万年)が経過し、そのはたらきが果実となり、正覚を得た(と表現される)十劫昔、カンブリア紀に地球上で生命の多様性、進化の大爆発が起きたのである。阿弥陀仏に象徴される何者かは、私たち生命体の開眼をして、つまり『眼』を与えた、つまるところは『光』を与えたのだ。そして、無数の『いのち』の多様性を。

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星から来た鳥

かつて地上に降り立った、星の智慧を持つ者たち、彼らは喩えるなら翼ある鳥のような姿であろうか?阿弥陀経に描写された西方極楽浄土の光景には数々の鳥が出現する。彼らは皆、阿弥陀仏の化身だという。


翼は宇宙から来たもの、の比喩であろう。


翼のある彼らは地球に降り、いのちの種を蒔き、耕作を始めた。我々人類の始祖である彼らは、はじめに我々ホモサピエンスにとって兄であり種族、竜の種族を育てた。爬虫類に知恵の実は与えられた。



竜人ナーガは現在の類人猿ベースのホモサピエンスに先立つ知的生命体であり、また彼らの親の行為をそっくり真似ようとした。我々哺乳類を知的生命体にしようとしたのである。


アドルフ・ランツの言葉を借りるならば、蛇はエデンの猿と交わり、その結果、猿に思考器官である大脳を発生し、知恵を持った無毛の猿に進化した。ベリアルがイブの飲む水に精液を混ぜたなどの伝説や、あまりにも有名なソドムの堕落はこの事実による。


しかし、それは星から来たものたちにとっては禁忌であった。かくして星から来たものと、竜の種族の間で戦いが起き、竜の種族はある処に封じこめられた。その場所とは、竜宮と呼ばれる海の底である。おそらくは伝説のアトランティスや、H.P.ラブクラフトが夢見で知覚したルルイエ、巨大な石塊で構築され、ユークリッド幾何学を無視した線と形で構成された都市が、竜の種族の住処の、人間の無意識への表出であることは間違いない。


しかし、彼らの創作物であるホモサピエンスは地上に残った。


人類史を変える一神教や資本主義、共産主義、相対性理論などを発明するユダヤ人は竜の血が特に濃い。なのでヒトラーは彼らにヒステリーになったし、彼らの代替としての概念がアーリア民族であった。我が国でも日ユ同祖論なるものが流行った。『先代旧事本紀大成経』では、我らが万世一系の天皇の身体的特徴をこと細かに描写しているが、竜の血が濃いことが証明されている。


が、考えてみれば、思考器官を備えているホモサピエンスならば、誰しもが竜の実験の産物、即ち竜の子なのである。

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無量寿星メトシェラ

HD 140283」別名メトシェラ星という星がある。地球から約200光年の距離にあるてんびん座のHD140283という星は、推定年齢が160億年とされ、NASAの科学者たちによる計算修正の後も150億年から140億年ほどの年齢とされた。もっともこの計算はNASAが因果関係を通すため酸素の量の見積りを増やすなどかなり強引な計算をしており、様々な批判を浴びた。しかし、どう計算しても数億年の誤差でメトシェラ星のほうが古いのだ。

この星は聖書の中に出てくる最高齢の人物の名前であるメトシェラをとってメトシェラ星とも呼ばれているが、ビッグバンによる宇宙誕生が138億年前なので、それよりも20億年古いとされた宇宙最古の星がメトシェラ星である。ビッグバンより古い星など、物理的に存在しないはずであるため、現代の科学者は皆、首を傾げたわけである。


1劫は432千万年なので、メトシェラ星の寿命の160億年は約4劫弱というところであろうか私は長年、阿弥陀仏が十劫昔に悟った、つまり432億年前に悟ったことは科学的に、物理学的におかしいのではないか?と思っていたが、「宇宙そのものより古いものはある」と証明されたのである。


てんびん座には他にもHE1523-0901という推定年齢132億年の赤色巨星が存在しており、てんびん座の方角には何かがある、この宇宙の起源のようなものが、と私が思うには十分であった。


そこで、お馴染みの天文ソフトステラリウムで、紀元前544年のウェーサーカ月、つまり太陽暦321日から2か月目の満月の夜半、つまり釈尊が入滅されたクシナガラ(26.45 N, 83.24 E)の西の空を見てみたのである。満月の夜は521日の夜であった。画像を見てほしい、深夜2時ごろ、てんびん座が木星を伴って西の空に見える。


極楽浄土は西方に十万億土を過ぎたところにあるというが、西方とはてんびん座の方角ではないか?


ステラリウムでは20時ごろに双子座が西方に沈み、真夜中の2時ごろにてんびん座が沈む。釈迦讃には「尸那城の跋提河 娑羅林双樹の下に在して 頭北面西右脇臥 二月十五夜の半に滅す」とある。夜半は、中夜ということなので、22時から2時までの時間であろうか?0時から2時まではてんびん座が西の空にかかる。18時の宵いには双子座が西天にかかるので、おそらくは観音勢至が双子座に該当する。脇侍が先に静々と降りてきて、その後にご本尊の阿弥陀仏が来る。最古の無量寿の星が来迎する。


というのも、親鸞の妻である恵信尼の覚醒夢にそのことが記されているからである。恵信尼消息にはその夢告がリアリティをもって記されている。


さて、常陸(茨城県)の下妻に幸井郷というところ

があり、そこにおりましたとき、次のような夢を見ました。 それは、お堂の落慶供養のようでした。お堂は東向きに建てられていましたが、

宵祭りらしく、お堂の前には松明(たいまつ)が明るく周囲を照らしていました。その松明の西、お堂の前に鳥井のような横木を渡したものに、仏さまのお御影像をお 掛けしてあります。一体は普通の仏さまのお顔ではなくて、ただ光り輝くばかりで、 それは仏さまの頭から発する光のようでした。そのため、本当のお姿は見えないで、ただお光だけしか目に入りませんでした。今一体の御影は、確かに仏さまのお顔をしておられたので、「これは何という仏さまでございますか」とお尋ねします と、お答えくださったお方はどなたか分かりませんでしたが、「あの光ばかりしか 見えない御影は、あれは法然聖人でございます。勢至菩薩さまですよ」と申され ました。

「それでは、もう一体の御影は」とお尋ねしますと、「あれは観音菩薩さまでご ざいます。あれこそ善信(親鸞)の御房ですよ」というのを聞いたと思ったとき目 が覚めて、これは夢であったと分かりました。


この恵信尼消息の、宵祭りにおいて、仏尊の一体は光り輝き、もう一体はやや暗く輪郭の捉えられるという表記が、どうも双子座のポルックスとカストルを暗示しているようでならない。ポルックスは明るく、カストルはやや暗い。脇侍の星たちが、観音勢至が、先に来ているのである。知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図と同じ構成だ。


双子座の後にてんびん座が来る。宇宙より古いメトシェラ星を含む星座が。無量寿仏が来迎する。

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前回の否定

と、前ページで空性を非と書いたが、一仮説であるとお断りしておく。所詮、頭の中でこねくり回してもたんなる施設、プラパンチャ、戯論なのだ。


おそらく、空や、龍樹の八不は、ある種の禅定、瞑想の深みに達して、その立場から言っているのだ。あくまで、推測、比量にすぎないが、内にも外にも、どこを探しても自己の無い、そのような特殊な状態において〈欠如した〉という意味の空が了解される。


ラトナキールティの説、類型からのアポーハ等も、その状態の真っ只中にあるものが、「あ、個々のものが識別できないや」という困った状態から出てきたものだろう。


前回の説を見返した私の心境としては、凝ったロボットを作ってうまく作動するが、何か違うな…決定打に欠ける、といった心境。

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1#∞

1≠0

有を空じたところ無となる

--

無を空じたところ有となる

(≠)


一般的に空は仏教の根本的な原理として、全ての究極的な相とされる。三諦円融の教理では観念無をも空じた絶対無となる。しかし、それは格義仏教であり老荘の影響により空=無とされたが、本来は空は否定であり、「非」という意味である。つまりは、ディグナーガの言うアポーハ(排除)である。


無限は数学的には無量大数ということであり、仏教では無量数ということ。無量者(無限者)から空じられた、つまり無量からアポーハされた我々、有限の群は有限である種々の存在形態を彷徨う。それを輪廻という。彷徨う者は何か?それは無量者(無限者)自身に他ならない。それは有限者がその性質として無限から空じられた、何らかの存在として自身を限定する空をさらに空じること、非-非無限のプロセスを経て悟ることができる。彼自身が無限者の一限定形態であることに気づき、その無限者の否定である有限(有情)を解脱して無量者であることに目覚めること、それは全ての有限の有情に備わった性質(仏性)である。


諸法は無限を空じて現れる、非無限として。空は否定の原理であり、非を冠詞のように置いて、無限性の欠如を表す。


無限はそれぞれにとって

Aにとっては非Aとなる

牛にとっては非牛となる

自にとっては非自()となる


「牛が非牛からアポーハされたものであり本質的に非存在である」というディグナーガの論説に、ミーマンサー学派のクマーリラは反発し非牛のアポーハには一周回って牛が必要であり、さらに言えばアポーハを使うより、直接、普遍の牛性を使うべきと論じている。


また、クマーリラは人の共通牛認識(認識内形象)の牛性という提案もしており、ダルマキールティはその案に乗っかって認識内形象説を発表している。しかし、認識内形象を煙とすれば、火としての知覚外存在が在ることになるだろう。そこを格義仏教的な勘違いで火は非存在とはいささか強引すぎる。


おそらく、そういうことではないのだ。


ディグナーガは牛が無量(無限)から排除された1つの牛として表現しているのであり、非牛クラスタから排除された普遍牛の非存在や、認識内形象としての牛を言いたいわけではない。非限定の無量者を否定して限定された有情の牛が生じる。この否定が空であり、牛であるために無限性が欠如するということだ。


非限定である無量者は全てであり、全てでない、どれでもあるがどれでもない、のでであると同時に全ての存在にとって0である。この∞=0から否定()の働きがあり、つまり0を否定して1が生じる。0=∞の欠如が1であるが、これでは、1にとって0=∞は永遠の彼岸にある。これでは、無量者はそれ自身に限定されて降りてこない。無量者を意識することがないために、我々、有限な有情は永遠に輪廻を彷徨い、交わることのない彼岸から無量者が悲しげに見ている、これがヘーゲルの言う悪無限である。


この無量者は、有情の「他」として、有情と相対的なものであり、両者は交互にアポーハされている。その限りにおいては、この無限者「阿弥陀仏」はそれ自身に限定された無限者であり、有情からは区分けされた永遠の彼岸にある。


この垣根は、無限者じしんが彼の規定である制限(有限の有情でないこと)を否定することによって、彼自身の被限定性を取り去られる。


それは即ち、アポーハの否定としての方便法身である。無量者が自己を超越し、自己を否定して(空じて)、有限的となるということは、無量者そのものの本性だからである。(大悲大慈)


阿弥陀仏が迎えに来る。無量の光が有限者に降りてくる。


彼じしんに限定された有限的無限者と、摂取される有情(有限者)の双方の限定が否定せられて、法蔵比丘が登場する。南無阿弥陀仏。

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