"Equinox"について


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方便としての爬虫類人種論

自分をよくしたい、自己保存、自己を美しく高貴にしたい、から修行するのか?よりすばらしい状態になりたいから?天人五衰という言葉がある。人は、あらゆる生物は、消滅への恐怖のため、形成作用をもって、自己の肉体や精神の保存を図る。自己保存、延命は、消滅への恐怖を原因とした結果である。不老長寿を求める仙道や、美容のための気功、強さのための武術気功も、冨貴を求める風水も、美容は種の保存のため異性を惹きつけたい本能の結果、強さは自己やその分身である子供やそれを産んでくれる女を守るため、冨貴も自分や一族が飢えないために必要なのだ。つまり、完全消滅からの距離を遠く置きたいがために、化粧、服装、医療、教育、兵器、経済、農業、狩猟、牧畜は発展してきた。


消滅への恐怖こそは、根本無明であり、それに対する悪足あがきの結果が現在の人類である。仏教や一部の外道は、逆にその消滅を目標として、輪廻からの脱却という思想を教えとして、様々な方便を考えた。本来ならあり得ない、消滅や死へ向かう思想を、うまく人間の文化に混ぜていったのである。死後の永続を願う天国思想を完全消滅である涅槃までの修行場としての浄土にすり替えた。あらゆる有情が消滅を安楽の元に受け入れる思想を流布するために、逆にあらゆる有情が涅槃に赴くまでは、自分はあえて消滅しない菩薩なるものをひねくり出した。消滅への反動のために肉体レベルで働く形成作用であるところの生殖行為を、戒律により否定する僧侶という生き方を定着させた。生存に有利であるところのあらゆる行為をせずに只、座って無為に過ごす禅を編み出した。


仏教は、祭祀や供養をして、神々やアッラーなどの上位存在からご褒美を貰う宗教とは根本的に違う。しかし、仏教でない外道の中でも、中々に仏教的な方便に似たようなものがある。所謂、異端とされたボゴミル派やカタリ派などの、この世は悪の神が創作した理不尽な産物であり、そのために真の神がキリストを遣わしたとして、繁栄を約束する旧約の神を否定した。彼らは物質や肉体は邪悪な創作物としているので子孫を造らない。それでも、個我の精神的な永続性を求める天国思想だったのは残念。


また、近年はその隔世遺伝的な学派が登場した。ゼカリア・シッチンにより主張された、アヌンナキなどのシュメールの神々や、デビット・アイクの主張する爬虫類人類、いわゆるレプティリアンに我々人類は遺伝子的操作を受けたというもの。これらの学派の主張するアヌンナキやレプティリアンが、本当に存在するかどうかはどっちでもよい。ただ、人類が家畜であり、畑のキャベツであり、SEXを面倒くさがる高等宇宙人に創作された年中繁殖可能な猿だとしたら。また、彼らの遺伝子が猿たちに混入されていたら少なくとも自己保存欲求や、一族の繁栄欲求は減退するに違いない。少なくとも肉体レベルの形成作用である〈生殖〉には疑問を抱くだろう。見事な方便だと想う。我々よりわかっていない、人類よりも消滅への恐怖を抱いているであろう高次元存在に全責任をなすりつけることができるし。

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阿弥陀仏と空

極楽往生とは、救われる、とはどういうことであろうか?いったい「何」が救われるのだろうか?浄土真宗聖典の顕浄土真実教行証文類 50頁にはこうある。


凡夫が思っている実体としての衆生や

凡夫が考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない(中略)

あらゆるものは因縁により生じるのであるから、もとより実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。


とすれば、阿弥陀仏に救われる衆生とは何であろうか?いったい「何」が十万億土を踏んで西方極楽浄土へ旅立つのか?転生の主体であるとされるいわゆる魂=プドガラが、ご浄土へ赴く。しかし、そのプドガラに実体がないことが正しい理解であるということであれば、いったい何が何処へ赴くのか?また、阿弥陀仏が実体の無いものを救う、ということはどういうことなのであろうか?救う阿弥陀仏じたい成立するだろうか?

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キリトリ

存在しないモノの色・受は存在せず、付託できないので想もなく行により虚構され、識により分別された名、言語概念のみが仮に有るという片輪走行。


と、これの反対が対象のある場合、焚き火を見る時、色・受は有る(熱く、明るい)ようで、概念上言語上の焚火が虚構であり、その言葉は熱くも明るくもない、という理解の逆の方向にある。感覚のほうが実に有るという片輪走行。


存在しないモノ、言語概念のみしか存在しないモノ、存在しない状態、非在を成立する、認めるとするならば(例えば非在の状態になりたいなど)、その反対の存在するもの、存在物は、自性あり、それ自体で成立して常住ということになりやすまいか?


つまり、非在の成立を問題にするならば、その反対の存在の自性も成立するとなるしかし、その存在なるものは、始めから名の、概念の括弧によりアポーハされているのである。そして、概念を感覚で補強して存在と言っているのが現状。


言語概念だけで言えばそもそも虚構、因果を遠離して前後裁断されているとわかれば、そんな自性だの常住だのそれ自体で成立なんて言わない。そもそも不生という。発生してないもの(概念)は、それ自体でも成立しない。また、発生してないものの反対はそもそも成立しない。


そもそも、非在の反対は存在とか言う説が多いが、非在だったら片方のつっかえ棒にもならんので、存在も成立しないだろう、言語概念、論理上は。


また、存在するモノ、と存在するコト、に分けるとすれば(縁起理論上それはダメだが)、存在するコトは存在するモノの『時間』ということになる。


始めからステルスで括弧される、名の括弧を自覚すれば、そしてその名、概念を対象とした有無の分別認識はナンセンスだ。それは虚構なのだから。また、有る無しの分別はあくまで認識上の働きなので、その分別も空(虚構)であることが了解される。分別の対象が空(虚構)だからである。


私たちは〈全て〉から対象を切り取りアポーハしてから、名、概念により、存在としている。それは、認識内形象の全てをいったん認識し、そこから2次的に諸存在、諸法を概念化しているのだ。認識内形象は概念知の対象ではないので、1次認識ではそれは未だ分かたれてはいない。


物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体などはあり得ない。例えば、石そのもの、などということはあり得ない。石本体なんてものを想定する時に已にナーマでカッコされそれは概念なのだ。石と分別する前は石は何だったのか、全体の一部であり未だ分かたれてはいない。


認識内形象においては、石の他にも大地や草、空や人や建物、車、火や風、水を認識しているはずであり、なお認識内形象においては未だ概念知による分別、識別の対象ではない。つまり、石は石と未だ識別アポーハされずに、ただ諸々の形象として映っているのである。


それをいきなり石、と言語概念枠がすでに最初からあり、石の石自性を想起してしまっている。普遍的石、石本体、石ロゴスを神の創造した石の鋳型とした一神教。または、石を神として祀るアミニズムなど。


そのような本体論を認めると、石そのもの、石本体の大脳上のコピーが石の認識内形象という中途半端な説が出てくる。言語概念ナーマはそのコピーのコピー(長期記憶保存のための)というのは人の言語認識発生史上のことで、本体論を考える時には始めから潜在意識に概念の型がある。尻尾が先か頭が先か、みたいなことだ。


〈全て〉からのキリトリ作業が先にある。それをアポーハと言う。


そのため、石の神や火の神や風の神など普遍を神格化した神々は仏教と本来なら相容れないものだ。仏教はここでヴェーダ思想とは袂を分かつ。

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端午節のサイン

明日、2020年6月25日は旧暦の5月5日、中華圏では端午節となります。そんな時、東京では…画像を見てください、ピラミッドが見えますよね。5月5日以来の50人以上で新型コロナウィルス新規感染者が55人。しかも明日は旧暦の5月5日。背景にはピラミッド。何やってんの毎日新聞〜!これではフリーメイソンの陰謀と思われても仕方ないですよ。ついでに言えば、3日前の夏至、6月21日には日蝕がありました。
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弥陀とミトラとクルド人

阿弥陀仏の成立にはクシャーン朝下(紀元23世紀)において仏教と異文化の交渉を挙げることができる。お釈迦様への信仰がゾロアスター教、とくにミトラ神信仰やギリシャ叙事詩、キリスト教のメシア信仰の影響を受け、成立した。


「阿弥陀」もしくは「弥陀」と呼ばれ、「弥陀」という呼び方のほうが原型である。ペルシア語やソグド語などのイラン語群が元になっている。サンスクリット語のアムリタ(不死の霊薬)やアミターバ(無量光)、アミターユス(無量寿)という語は、後から付随したようだ。大学研究者によると、「弥詑」が「阿弥陀」に先立つ原語形であり、中期イラン語に特有の母音挿入によって二次的に「阿弥陀」が成立した可能性があるらしい。このような母音挿入は、中世ペルシア語辞書においても確認することができるらしい。つまり、「阿弥陀」ではなく「弥陀」が原型なのだ。読み方は、日本語だと「ミダ」だが、中国語で読むと「ミートォー」である。中国語の念仏は、なむあみだぶつ、ではなく、「アーミートォーフォー」と唱える。とくに「ミートォー」が「ミトラ」の訛ったものということが伺える。仏は「フォー」と発音する。


阿弥陀如来の信仰は、死の寸前に仏の来迎をまち、極楽浄土に往生して阿弥陀如来を師として仏道修行しようとするものである。死後、浄土において、直接「弥陀」に教えを受けようとしているが、考えようによれば幽体離脱一派とも言える


この修行方法の元祖としてアサンガ(無著)が挙げられる。もっとも、アサンガの場合には阿弥陀仏でなく弥勒菩薩であった。(じつに阿弥陀仏も弥勒仏もミトラ起源だが)。アサンガが幽体離脱して兜率天て受けた教えは、弥勒五法と呼ばれる。チベットの伝承においては「大乗荘厳経論頌」「弁中辺論頌」「法法性弁別論頌」「現観荘厳論頌」「究竟一乗宝性論頌」を兜率天において弥勒菩薩に直接教わったとされる。中国の伝承においては「瑜伽師地論」「分別瑜伽論」「大乗荘厳経論頌」「弁中辺論頌」「金剛般若波羅蜜経論頌」とされる。


もっとも、弥勒菩薩もミトラ起源であり、梵名マイトレーヤなのだから、このような脱魂型の宗教は同じミトラス教から分かれたのかもしれない。


アーディティー神群においてミトラ神は太陽と光明を司り、ヴァルナ神は月と夜と水を司った。この二柱は兄弟または一つの神のように不離であった。ミトラは契約と友愛の神であり、または万物の監視者でもあった。


監視者である、つまり万の目を持つことから、孔雀や、千手千眼観音、そして目をシンボライズした象徴はミトラを表していることが推測できる。


1225日のクリスマスは実はミトラの誕生日であり、キリストの誕生日はローマの時代までは16日であった。当時、ローマではキリスト教とミトラ教が人気を2分しており、民衆の中で融合されていった。サンタクロースの被る赤いフリギア帽はミトラの帽子でもある。赤は阿弥陀仏の色であり、これは紅頗梨色(ぐはりいろ)と言われる。紅水晶の色であり、夕日の色である。


千眼、万眼のミトラを表すかのように孔雀に乗った阿弥陀様もいる。安養院紅頗梨色阿彌陀如来坐像がそれである。孔雀はクルド人の宗教ヤージディ派の反逆の大天使マリク・タウスの象徴でもあるが、ヤージディ派の象徴がミトラの太陽であるのは興味深い(画像)


クルド人と言えば、2020.5.30.13時ごろ、広尾付近の明治通りで、渋谷警察署の警察官がクルド人男性が威圧行為を受けたとされる動画が拡散し、物議を醸している。この現象はアメリカの白人警官による黒人男性フロイドさん圧死事件に似ていて、やはりそのような星回りなのかな、と思った。香港でも中国共産党による横暴法案ができた。権力が図に乗りやすい星回り。

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