"Equinox"について


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謹賀新年2020

明けましておめでとうございます。

十二支では始まりの「子」になりましたね。十二支にまつわり、十二支因縁、または「子」の話しをしようかと思います。

まぁ、ネズ公の話しではないですがね


2020年は初っ端から、第三次世界大戦の危機に見舞われ、トランプのプロレスのせいでイラン国民及び、イスラム教徒の方々は煮え湯を飲まされましたね。ソレイマニ司令官は暗殺されてしまいましたけど、「ソレ、今ニ戦争だ」と残念ながら頭の中で考えてしまいました。「中国が風邪を引く」という何処かの予言通りに、謎のウィルス性肺炎が流行っています。プラスチックナノ粒子は北極の動物や魚まで汚染し、グレタさんが集合無意識に突き動かされるかのように叫び、また、ベテルギウスの超新星爆発によるガンマ線バーストによりオゾン層が完全に破壊される可能性も取り沙汰されています。ジョージア・ガイドストーンに書いてある通りに、人類の人口を十分の一にすべく、何かが動き出しているのかもしれません。


さて、ここ数ヶ月、いわゆるレプタリアン、恐竜人種、地球先住民、鳥に近い彼ら、について考えてきました。極楽浄土には鳥ばかりいる、という印象も手伝ってか、または鷲谷日賢の奇怪な本の影響か、キンナラや竜王、羅刹女について書き記してまいりました。はては、その起源を遠く十万億土の向こう、宇宙の彼方、アルデバランやペテルギウスの星系に求めてみたり。


さて、ここら辺で落ち着いて、なぜ「存在しないかもしれない彼ら」について書いてきたのか振り返ってみようかと思います。


まず、重要なのが、「彼ら」ないしは、彼らのモデルになった恐竜たち、は大滅亡によりこの世界には已に存在していない。また、何らかの手段、または異星の思惑か助けにより、当時の捕食対象である猿にその遺伝子を残したにせよ、それはあくまで仮説やオカルトの域を出ないものであり、その主流の形態や主な活動は完全に滅し、終了している。傍流として鳥は活動はしていますが、「竜種」としてはこの完全に滅びてしまったもの、という了解があるわけです。


以前の私の説では、アブラハムの宗教の聖典を極端に曲解した解釈、またはエジプトやシュメール、ペルシャの神話から、蛇や竜に象徴された太古の存在が自らの一部を人類に埋め込み、形を変えて生き続けているようなことを言いました。そういう意味で人類は畑なのだ、と。彼らはその畑を耕し、己が種族の延命を図っているのだ、という説。


似たような意味合いの大乗仏典、特に法華経では、方便現涅槃ニルヴァーナは方便であり、ブッダは未だ我々の行道不行道を見守っている、また久遠の昔から生き続けている久遠仏が出てきて、かなり常住のほうへ傾いた、仏は永遠の神のような存在になっています。


一方で原始仏教やその流れの上座部仏教での「解脱」は再び、二度とこの六道輪廻の世界に生まれ変わらないことを目的とするものであり、「灰身滅智」一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すことが、理想とされる涅槃の境地、ニルヴァーナであります。灰滅、無余灰断とも言います。


おそらくは、生物種はこの「無」「滅」というものが非常におそろしい、そこから、生物種の努力は始まります。転生概念の発達や、久遠仏や、授記や、外道のパラダイスなど「精神(名)の延命」の文化を創り出しました。「肉体(色)の延命」においては子を造り、二世安楽、子孫繁栄を祈願するわけです。なぜ、子を造ろうとするかと言えば、子は己が分身、コピーであり、後の世に残すものです。言うならば、一種の延命です。そう徹して考えると、いわゆる性愛や闘争、労働や貯蓄、教育や医療に至るまで全て「子」を中心にして回っていると言えます。そして、この己が分身コピーである「子」を残したい衝動が、仏教で言う「無明」に近いものであるのです。ブッダは十二因縁を説きました。




「及び広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色(みょうしき)は六処に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり。」


さて、ここで性愛(カーマ)、もしくはダーウィニズムから見た十二因縁を考えてみましょう。


子を残したいという根本欲求〈無明〉は行、つまりパートナーを探す指向作用(性欲とも言う)を生じます。〈行〉には生成作用という意味があり、SEXを暗喩しているのかもしれないですが、条件づけられた作用、または指向作用という意味があります。性的な指向作用は〈識〉と縁があります。識は男女の分別、つまり性別でもあります。そして、背の高さ、顔、頭のよさ、肉体の好み、性格を分別します。これは行の条件付け、つまりは予めDNAに書き込まれた情報プログラムに依っているのです。美しい異性、体が魅力的な異性、才能のある異性に惹かれます。行の条件付けにより、相手の分別(識)、選択がなされるわけです。識は行より起る。行はこれ識の縁たり、というわけです。


さて、分別は〈名色〉を対象としています。私たちは異性を色(形態)と名(精神)により把握しますが、対象が女性でしたら、女性の形態と精神があります。それを六処という感覚器官と脳(意識)により把握しています。名色は異性の性格(中身)と形態(顔やスタイル)と考えるとわかりやすいです。これら対象の性格と形態は六処という感覚器官と脳がなくては把握できません。六処は名色という対象と触(接触)することで作動します。接触により受(感情)が生じます。この受(ヴェダナー)は楽しい、苦しい、などの感情のことです。そして、次の愛(渇愛・タンハー)を生じます。これは、先ほどの受(ヴェダナー)を再び体験したい、という願望が生じるということです。再び、というのがポイントです。「再び」かの楽しい感情、感覚を味わいたい、しかし、今は味わえていない、故に渇するのです。愛(タンハー)は再生をもたらし、終わりなき転生(サンサーラ)をもたらすと言われています。再び、味わいたいがために、また同様のシュチュエーションに戻ってくるのです。そうして、再び味わうことに成功します。そして、ループが始まります。つまり、その感覚、感情にハマってしまうのです。これが取(執着、ウパーダーナ)と言われています。いわば、その感覚、感情に中毒してしまうのです。例えば、性愛のことでしたら、何度も相手と逢い、デートし、SEXをします。その感覚、感情、性愛にハマり、ループします。そして、その感覚、感情、それを齎す体験、条件、対象を手放したくない、と思うようになります。いわゆる執着となります。


しかし、よく考えてみれば「このどうしようもない状態」の根本原因は、自分の分身、コピーを後世に残したいという遺伝子の根本欲求のためであり、お相手の魅惑的な異性は単なる「釣りのエサ」なのです。お尻や胸がデカい女性が人気あるのも、遺伝子情報に、安産型であり、子に母乳という栄養をたくさんあげられそうだ、と潜在意識の奥底のさらに奥底の生物種としての経験に仕込まれていることによります。


さて、この遺伝子の仕込みの目論見どおり、お互いを気に入り執着し、まんまと何回もSEXしまったカップルは、当たり前ですがその片方が妊娠します。この妊娠を〈有〉といいます。自分達のコピーを残すことに成功したわけです。遺伝子自体の残存、種の保存が成功するわけです。これを「有」と言います。人類の有。これは人道だけではなく、他の生物種、存在形態にも当てはまります。例えばネズミなら、ネズミ種としての有、ネズミとしての存在形態(有)ということです。


そして、妊娠から出産(生)となり、その存在形態において生まれ、〈老死〉があります。

老衰・憂悲・苦悩、そして〈死〉はこの生に起因しています。


さて、先日ふと思ったのですが、別に子どもを造らなくてもいいじゃないか?と。まぁ、パートナーがいないことが理由かもしれませんが、よしんばお相手がいたとしても、あと20年も経たないうちに、環境破壊で地上は住めないような状態になるでしょう。気温も10度くらい上がりそうですし、アホな大統領のツイートで世界大戦が起きそうな状況です。生まれた子どもをこんな不安定な世界に放り込んでも、フリーメイソン、さらにはその内陣のイルミナティが人口の九割削減を目論んでいるならば、不幸にも死ぬ可能性が高い。だいいち、空海や最澄、日蓮や道元が子ども残してますか?子どもを残した親鸞もそれにより最悪の苦しみを味わい、絶縁していますし、さらにその子孫は徳川家康に利用され、宗派が完全に分裂する原因になってしまいます。苦しみの原因となっています。釈尊も、子どもができた時、ラフラ(障害)だと呟き、憂いたと言います。


と、頭では考えましたが、何処か引っかかりました。私は何故、子どもが欲しいのかを考え、将来、子ども居ないかもな、別に居なくてもよくないか⁉︎と考えた時に、あまりに巨大なよくわからない、無の池のほとりに佇んでいるような、そんな感覚に襲われました。この底無し池のような感覚が嫌で、滅亡と見せかけて(方便現涅槃)、実は世々生きている、無とは正反対の時間を超越した(降三世)、爬虫類人種(竜)について、チベット地下の都市シャンバラ、竜の王国ドラコニアを妄想していたのかもしれません。とは言え、仮説を妄想施設プラパンチャするのは楽しみなので、まだ少し続くかも。が、おそらくは無の嫌な感覚のほうが本来、ブッダが我々を連れて行きたい処なのでしょう。何が嫌かって、そのまま無の池の底無しに惹かれてしまう、そんなところもあるのです。


この底無し池…私にはまだ洗足池クラスの感覚ですが、悟りに近い人には無の海になってしまうのかもしれません。舞の海ではありません、念のため。どすこい!本年も宜しくお願いします。

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弥陀とベテルギウス爆発

前頁では阿弥陀仏の正体を推理するにあたって、アルデバランとそのエイリアンについて焦点をあてたが、紅頗黎色の恒星は西に二つある。もう一つの候補がベテルギウスだが、気になるニュースが飛び込んできた。


『CNN2019.12.27 Fri posted at 14:50 JST

冬の夜空に赤く輝くオリオン座のベテルギウスが、この数カ月間で急激にその明るさを失っているとする観測結果がこのほど発表された。天文学者らは超新星爆発を起こす前触れの可能性があると指摘している。

ベテルギウスに関する論文を今月8日に発表した米ビラノバ大学のエド・ガイナン教授は、CNNの取材に答え、ベテルギウスの明るさが10月以降著しく低下していると述べた。現在は通常時の2.5分の1程度の明るさで、夜空の星の中で23番目前後の順位に下がった。一時期は9番目に明るい星だったという。

ガイナン氏らのチームは、ベテルギウスを1980年から継続的に観測している。過去50年間でこれほど急激に暗くなったことはないため、何か尋常でない事態が起きようとしている可能性があると考えられる。

ガイナン氏は超新星爆発に向かう段階にあることを示唆したが、そうした動きは星の深層部で起こる。極めて巨大なベテルギウスの場合、観測によってその過程を明らかにするのは不可能だ。

ベテルギウスは地球からの距離が約700光年と、太陽系を含む銀河系の中でかなり近くにある恒星の1つ。誕生から900万年ほどが経過しているとされる。通常、このサイズの星が1000万年を超えて存在し続けることはなく、今後20万~30万年の間に超新星爆発を起こしてその一生を終えるとガイナン氏は見ている。

これまでにもベテルギウスは一定の周期で明るさを変えていたが、今回は過去数年と比べ劇的なペースで輝きを失っている。数学モデルに従えば来月半ばには暗くなる周期が終了するものの、ガイナン氏によると再び明るくなるかどうかは必ずしも断定できないという。

実際に超新星爆発が起きれば、昼でも肉眼で見えるくらいの明るさになるとガイナン氏は指摘。そのときは赤かったベテルギウスが青い光となって3~4カ月輝き続ける。完全に消えるまでには、およそ1年かかるとみられる。

爆発で地球の生命に直接危険が及ぶことはないが、放射された紫外線が大気中のオゾン層を破壊する可能性がある。』


阿弥陀仏は無量光仏、無限の光の仏とも言われて、その光は太陽や月の光を超えている、と言われている。西の方角をお釈迦様が入滅の際に顔を向け、大経では阿弥陀仏とその十二の光について説かれている。



その光は十二の光に喩えられる。それぞれ、十二の異名がある。日本では平安時代後期から、光背に化仏の形で造顕されることがある。


無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏 


曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』十二光のひとつひとつを阿弥陀仏の徳にあてはめて讃嘆せられ、親鸞聖人も『浄土和讃』のはじめにこれを讃じてある。また親鸞聖人の『銘文』には、『首楞厳経』の十二如来と『大経』の十二光仏とは同じであり、十二光仏が一劫に一仏ずつ順次世に出現されるとある。



阿弥陀仏の属性が光なのには理由があると思うのだ。一つは、阿弥陀仏の原型がミトラ神にあるということ。これは、弥陀の48誓願が、契約、約束の神であるミトラらしいということ。もう一つは後で書くが、摩多羅神との関係だ。ご存知なさる方もいるかもしれないが、摩多羅神は念仏の守護者でもある。摩多羅=ミトラというのは、暗黙の了解と言ってよい。ミトラは光明神である。


そして、物質世界にもその顕れは現出する。それが、ベテルギウスの超新星爆発だとしてもおかしくはない。ただ、その影響は地球環境や人類の意識に大きなものがありそうだ。グレタさんが地球環境のジャンヌ・ダルクのように現れたのも、いよいよの感覚がある。

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弥陀と観音とアルデバランのUFO

ブッダが西の方角に面して入滅した、と諸経に記されている。そしてそれは旧暦の二月十五夜半の満月の時だったと伝えられている。

その季節、おそらくは春の彼岸の時期、西の方角には雄牛座の周辺の星座が見えていたはずである。ぐはり色の星が阿弥陀に喩えられたと推測されるが、赤色の恒星は二つある。雄牛座アルデバランとオリオン座ベテルギウスである。中でもアルデバランと付近のプレアデスは異星の文明のあると様々なUFOコンタクティにより報告されている。


アルデバラン星系には、ナチスの母体オカルト結社であるヴリル協会のUFOコンタクティである、美女霊媒師、マリア・オルシックとシグルンがコンタクトしたと言われたスメラン文明がある。古代シュメール文字と酷似した文字を使い、地球文明よりはるかに進んだ科学力を持つ彼らスメランは、シュメール文明やメソポタミア文明を地球にもたらしたという。スメランは語感が皇(すめらぎ)に似ていて面白い。


彼らの外見は一様に金髪碧眼のアーリア人種の理想系のようなものだが、これは筆者から見れば彼らの潜在意識下の元型の投影に過ぎないのでは?と思う。観音経で観世音菩薩が相手の願望に合わせて三十三の変化身を現される。声聞、縁覚等の仏、梵天や帝釈天や毘沙門天などの神々、第六天魔王や夜叉や阿修羅などの悪魔、乾闥婆や迦楼羅や緊那羅などの異類、金持ちから女人、子どもにまで変化して相手を救うと言われている。観世音菩薩は阿弥陀如来の1番弟子にして使者である。


余談だが、クトゥルフ神話におけるナイアーラトテップのポジションを観世音菩薩は占めていると思う。旧支配者(如来)すら一目置き、千の顔と姿を持つ無貌の神、主人であるアザトースの意志の代行者にして使者である。千の異なる顕現(化身)をもってありとあらゆる時空に出没する(十方諸國土 無刹不現身)。


さらに、なぜ千もの異なる顕現を持つかと言えば、UFOコンタクティふうに言うならば、本来形態のないその意識体は相手の願望に合わせて投影された姿そのままに現れ、相手を高次元に引き上げる。マリアやシグルン、ヒトラー やハウスホーファー、ヘスにとっての理想系は金髪碧眼のアーリア人種だったので、たまたまそういう姿で顕現したにすぎないだろう。菩薩、天人、異星人、または本来の我々は他者の欲望、ないしは願(高次の欲望)によって出現する。化天は自らの欲望の対象を創り出し、その楽を自在に享受する。物質自体を創るという考え方を仏教ではせずに、物質を対象として把握した時の感覚内容(境)を創るとある。自在に幻を創り出すわけだ。ただ、人間の見る物質も物質ではない、と言えなくもない。「物質だ」という概念(法)と感覚内容(境)によって成り立つのだから。高度に進んだ科学もまた、化天のように自在に幻を創り出す。


考えてみれば、私たちも父母の願望により生じている、存在が他者の願により生じるとも考えられる。化天が願望によりその対象、環境や相手を自在に創り出すのならば、その願望を自在に体現し、楽を享受する者が他化自在天である。他者(化天)の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするので、他化自在天という。化天が欲求する欲望の対象なので、例えば、UFOや、宇宙人や、美女、美男子、美しい禽獣、何でも答えてくれる人工知能(AI)、惑星をも破壊できる兵器や、すごい境地のグル、何でも願いを叶える神龍などの姿を取ることもあるだろう。


アドルフ・ヒトラー曰く独裁者は民衆の、民族の欲求、願いにより生じると言った。極楽浄土では欲求した環境がそのまま現前するという。そのような性質の惑星がおそらく雄牛座の方角にあるのだろう。


仏もまた、衆生の願いにより出現する

弥陀と弥勒 その3

釈迦讃、というお経がある。よく勤行でお唱えするのだが、このお経がなかなかカッコイイのである。


釈迦讃


敬禮天人大覺尊 恒沙福知皆圓満

因圓果満成正覺 住壽凝然無去来

衆生没在生死海 輪廻五趣無出期

善逝悟為妙法舩 脳滅愛流到彼岸

願於来世恒沙劫 念念不捨天人師

如影随形不暫離 晝夜勤修於種智

霊山釈迦行妙尊 金口所説法華経

生生世世得値遇 在世處處聞法音

如彼往昔沙羅林 五十ニ類最後供

我今所獻亦如是 當来願得無上報

非生現生伽昆羅城 非滅現滅倶尸那城

常在霊山度衆生 故我頂禮釈迦尊

釈迦能忍世間苦 往来八千度

衆生得益無数億 故我頂禮釈迦尊

倶尸那城跋堤河 在沙羅林雙樹下

頭北面西右脇臥 二月十五夜半滅

願我往生極楽界 異類衆生示正道

作不生死能引導 疾證無上菩提

七日巳前知死後 臨命終時不顚倒

正念往生極楽界 悟無生忍證十地

一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者

端坐思實相 衆罪如霜露 慧日能消除

是故應至心 懺悔六情根

毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦

無佛世界度衆生 今世後世能引導

妙法蓮華経 是大摩訶衍 

衆生如教行 自然成佛道

願以此功徳 普及於一切

我等與衆生 皆共成佛道


お釈迦様への讃歌だが、その中に頭北面西右脇臥という一節がある。お釈迦様は頭を北向きに顔を西に向けて、右脇を下にして入滅された。ので、後の世ではご臨終されたお方は北枕で西に顔を向ける風習となった。お釈迦様が西を向いて般涅槃されたのは、西方には、カピラヴァスドゥ(伽昆羅城)というお釈迦様の故郷があったから、という説から、もしくは故郷に足を向けて寝ないというならわしがインドにあり、入滅の際は北にカピラヴァスドゥ(伽昆羅城)が位置した、という説もある。カピラヴァスドゥについては非生現生伽昆羅城という一節からもわかると思う。

また、たんに西の極楽浄土を見て、入滅されたという説もある。

釈迦讃では続いて、二月十五夜半滅という一節が来る。お釈迦様は旧暦の215日夜に入滅された、ということである。旧暦の215日は太陽暦の321日前後である。ちょうど春のお彼岸春秋分点すなわち"equinox"となる。この日には太陽が真西に沈むため、この日の日没はとても重要なのである。その真西に西方極楽浄土はあるとされたのだ。涅槃会というものもあるが、真の涅槃会は春彼岸の日が正しいのである。しかし、3月下旬ともなれば灌仏会(釈迦生誕祭)の48日と近いために、インドやミャンマー、タイなどではウエサーカー祭として同じ日にお釈迦様の入滅と生誕を祝うのである。


さて、ここで重要なのが二千年前のお釈迦様の入滅時も春彼岸の夜だったということだ。つまり、同じ星空、同じ星座が空に昇っていたということだ。歳差運動あるしても。つまり、"春の星座"を調べれば釈尊入滅時の夜空がわかるのではないか?西方にはどの星座があったのだろうか?インドのクシナガラ周辺の3月の星座を「ステラリウム」なる天文ソフトで調べてみると、BC383年真西には「雄牛座」がある。まぁ、2千年後の空模様もあまり変わらない。というわけで、お釈迦様の見ていた「西」には雄牛座があった。雄牛座には赤い恒星アルデバランからプレアデス星団、ヒアデス星団など、いわゆるUFOコンタクティが示唆するところの有名な天体がひしめいている。さらにペルセウス座やオリオン座が隣接しており、両星座ともモデルはミトラと言われている星座である。雄牛座の真上にあり、メデューサから目を逸らしている。ミトラの神像は皆んな目を牛から逸らしているのである。さらに言えば、ペルセウスはキビシス(袋)を持っている。これは、メデューサの首を仕舞うためのものだが、袋を持った仏の原型でもある。とくに、七福神の布袋尊は弥勒菩薩の化身として有名である。布袋と牛が出てくるのが十牛図であり、ペルセウス座と雄牛座が涅槃会において真西に位置するこミトラが真西にいるということでもある。つまり、阿弥陀が真西にいるということ。さらに言えば、アルデバランは紅頗黎色をしており、阿弥陀と弥勒とミトラが、雄牛座星系の存在ということが示唆されるのである。同 

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弥陀と弥勒 その2

千眼、万眼のミトラを表すかのように孔雀に乗った阿弥陀様もいる。画像は安養院紅頗梨色阿彌陀如来坐像。


弥陀(アミターバ)が過去仏、弥勒(マイトレーヤ)が未来仏となるのだが、同じく起源がミトラ神であるのがおもしろい。では、現在仏(お釈迦様)についてはどうか?さて、ここで法然と親鸞に御登場を願おう。現在仏である釈迦如来について解釈してもらうと、


久遠実成

  阿弥陀仏


 五濁の凡愚を

  あはれみて


 釈迦牟尼仏と

  しめしてぞ


 迦耶城には 

   応現する


と浄土和讃にはある。お釈迦様は三身の応身であり、応現するとされる。


報身については法然上人の理解がスタンダードである。報身にあたる者が、阿弥陀仏であるとし、まさしく四十八願を成就するために永劫の修行をなし、ついに悟りをひらいて、濁悪の衆生のために、西方極楽界を建立し、摂取不捨の大悲を垂れて、一切の衆生を救済する仏であるとする。


法身については、親鸞が驚くべき理解を示している。親鸞は、曇鸞が「往生論註」において説く二種法身の説により、法身を法性法身として、報身を方便法身とする。曇鸞曰く、「諸仏・菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず」


弥陀成仏のこのかたは 

いまに十劫とときたれど 

塵点久遠劫よりも 

ひさしき仏とみえたまふ

『大経和讃』


自我偈で有名な『法華経』寿量品には本門の釈迦如来を五百塵点久遠劫より昔から法を説いている古仏とするが、親鸞はこの本門の久遠実成の本仏をもって法性法身の阿弥陀仏としている。それを表したのが、久遠実成 阿弥陀仏 という先ほどの和讃である。


方便法身、つまり報身の阿弥陀仏の成仏について、『無量寿経』および『阿弥陀経』は十劫の昔(十劫成道)と説く。十刧はおよそ432億年である。久遠修行されて432億年前に成仏されたとされる。久遠仏(法身)→ 四十八願の阿弥陀仏(報身)釈迦牟尼仏(応身)といった三身の理解がされるのである。


日蓮の法華経理解とは全く違うことがおわかりになるだろうか?因みに、日蓮宗諸宗では、この久遠実成の本仏はあくまで釈迦如来であり、次第に本仏を日蓮本人とする教えに移行する。


さて、話しを弥陀に戻そう。


ミトラ神は太陽と光明を司り、ヴァルナ神は月と夜と水を司った。この二柱は兄弟または一つの神のように不離であった。ミトラは契約と友愛の神であり、または万物の監視者でもあった。


監視者である、つまり万の目を持つことから、孔雀や、千手千眼観音、そして目をシンボライズした象徴はミトラを表していることが推測できる。


1225日のクリスマスは実はミトラの誕生日であり、キリストの誕生日はローマの時代までは16日であった。当時、ローマではキリスト教とミトラ教が人気を2分しており、民衆の中で融合されていった。サンタクロースの被る赤いフリギア帽はミトラの帽子でもある。赤は阿弥陀仏の色であり、これは紅頗梨色(ぐはりいろ)と言われる。紅水晶の色であり、夕日の色である。

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