"Equinox"について


卍 寿萬寺 卍

         

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仏教徒の闘争の是非

 浄土真宗の歴史は一向一揆の歴史と言っても過言ではない。仏教徒の武装は、比叡山の僧兵から始まったが、正面きって信長などの大名と戦争までしたのは本願寺門徒だけであろう。そこには、蓮如上人の御文による、通信革命あり、また、兵器の技術革新もあった。本願寺側の戦力、雑賀衆のような鉄砲傭兵の活躍はそれに因る。火縄銃も日本の戦国時代において魔改造され、ヨーロッパ人もびっくりなものになっていたらしい。戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国であった。


 伝来後に日本において引き金にバネを用いる改造がおこなわれ、それまでにはなかった瞬発式火縄銃となり命中率が向上した。すなわち、火縄の火力を瞬時に火薬に点火させるため、引き金に連動する毛抜き式弾梯の点火装置をともない、火挟みのなかの火縄を、引き金とともに瞬時にバネの力で火薬に叩きつけ点火する仕組みである。それに対し、当時のヨーロッパ製の銃は引き金が火挟みに連結する緩発式火縄銃である。ヨーロッパで瞬発式が採用されるのは17世紀にフリントロック式発火装置が考案されて以降のことである。銃身においても、日本の筒部は錬鉄を鍛造したものをベースとしており、瞬発力においても火薬の爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。


 こうした兵器の革新や、そもそも武装闘争そのものの是認がなくては、一向一揆は成功しなかっただろう。百年も続く百姓の持ちたる国、仏教共和国は武装闘争により成り立ったのである。


大般涅槃経巻三金剛身品第二によれば


「善男子・正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして応に刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」


「五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く正法を護る者は応に刀剣・器杖を執持すべし」


「弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は、先世の四重五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給う。」


とある。涅槃経は武装闘争は前世の五逆の大罪すら滅すると言っている。滅罪としての武装闘争は明らかに是なのである。つまり、修行する比丘、比丘尼、檀信徒、門徒、仏教者、正法を守るためには武装して守護すべし、それは滅罪となる、と涅槃経は言っている。


 しかし、仏教徒が悪い国に武器を持って立ち上がるにしろ、例えばその国に住む他の動植物や悪権力には関係ない人には配慮が必要だと思う。例えば、爆弾や放火などは、仏教弾圧に関しては全く罪のない衆生が巻き添えを食うのでダメだろう。とくに焼夷弾や原爆は土中の微生物まで死ぬので、仏教徒の闘争の手段としては最悪だろう。一殺多生は何も人間の範疇に留まったことではない。こうしたペンペン草も残らないような聖絶、つまりジェノサイドは、一神教や共産主義などユダヤ系の思想から出たものがやることである。

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百姓の持ちたる国

 3/20は春分の日、エクイノクスにとっては名前に因む特別な日でした。この日に一向一揆の話しをするとは、奇妙な感覚がします。 


 加賀一向一揆1488年から1580年にかけて起こった、加賀の本門寺門徒らによる一揆。封建社会において、信仰に支えられた被搾取階級が武装闘争を起こし、百年にも及ぶ共和制の仏教独立国を維持した、稀有な例と言えよう。


この闘争の指導者は、ご存知、蓮如上人である。


 蓮如は1474年から1475年までの間、吉崎御坊(福井県)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。その後、富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。蓮如はこれによって守護の保護を受ける目論見だったが、政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて逆に門徒の弾圧を開始、裏切られた蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。越中では政親と結託した石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、1481年に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆)。また、政親は9代将軍足利義尚による六角征伐に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。1488(長享2)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、高尾城の政親を攻め滅ぼした(長享の一揆)。


 1546年には尾山御坊(現在の金沢城)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。1550年代から朝倉氏と、1570年代には上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。そして、長島一向一揆や越前一向一揆を経て、戦いは石山合戦へとなだれこむ。1580(天正8)に信長と顕如が和睦、石山本願寺が引き渡し直後に謎の出火による炎上、その後、尾山御坊も陥落した。加賀一向一揆は解体された。


仏教をベースとした共和制は、世界的に見ても珍しい。


 富樫家の権力のタワーを揺るがし、倒したのは、農民や階級の低い武士の分散ネットワークだった。ネットワークをファーガソンはスクエア(広場)と呼んだ。タワー(権力)を倒すのは、スクエア(平等)である。ネットワークは通信手段の発達により広まる。テクノロジーの発達は横軸のネットワークの発達を促す。蓮如上人の手紙(御文)を用いた伝道は、強力なネットワークを作り出すことに成功した。奇しくも、「仏の前に万人は平等」という思想のもとに農民主体の一向一揆が起こった16世紀ごろ、ヨーロッパでも似たような革命が皇帝やローマ教皇の権力を揺るがしていた。ルターの宗教改革である。


 ヨーロッパでは、その頃、活版印刷が発明された。。活版印刷は15世紀半ばまでにドイツ人の印刷業者であるヨハネス・グーテンベルクにより完成され、1455年には初の印刷されたラテン語の新約・旧約聖書『グーテンベルク聖書』が生まれている。蓮如上人の御文にあたるものが「ルターの聖書」である。ルターのドイツ語訳により、ラテン語の聖書は民衆も読めるものとなった。そして、印刷により普及させた。さらに、当時の教会の体制を批判した記事や風刺画を印刷して配った。ルターの思想は横軸で広まり、ネットワークを形成した。その結果、ルターの改革は大きな運動となっていった。ルターの思想は「神の前に万人は平等」であった。


「すべて破戒も持戒も、貧窮も福人も、上下の人を嫌わず、ただ我が名号をだに念ぜば、来迎せんと御約束そうろうなり」〈往生浄土用心〉


 

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階級闘争について


 社会が2つ以上の階級に分れ,階級間に抗争が行われることを階級闘争という。フランス革命においてはリベラルな知識人層,保守的な所有者,無産者の3つの階級の対立があった。マルクスは『共産党宣言』のなかで「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べている。


 インドにおいてはバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの四つの階級があった。しかし、インド特有のものがあり、階級闘争は起こらなかった。インドで階級闘争をするにはまず、宗教改革が必要だったのである。お釈迦様はカースト制度をバッサリとと否定し、それを支えていたバラモン教の宗教倫理、思想論理を否定した。それまでは、上位カーストに生まれるのは前世の行いがよかったから、下位カーストに生まれるのは前世の行いが悪かったから、という宗教的論理の元に、大衆は差別を肯定した社会を作り上げていった。ところが、釈尊は上位存在であろうと、下位存在であろうと、一切は皆苦しみであると喝破し、寂滅()こそ楽であるとされた。また、我々の情報の保管庫である遺伝子の存在に気づき、それを識(阿頼耶識)とされ、我々、生命体の生存志向()が識を子孫にコピーするということを、十二縁起を通して説かれた。そして、生存志向()の原因である無明(死への恐怖)を滅すれば、共喰いの螺旋である生命を解脱できる、と説いたのだ。それを、当時のインドの思想や常識では彼の言葉が理解できなかったために、その混合であるところの現在の仏教になってしまった。それは、全くドラスティックな、根本的な宗教革命だった。


 釈尊は、輪廻転生思想が、解脱を目論見つつも、その実、解脱を恐れる心による「延命」だと指摘されたのである。肉体的(ルーパ)の延命が生殖行為であり子造りであり、精神的(ナーマ)の延命が転生や来世の再生である。このことは仏法そのものである釈尊が、チュンダの延命のためのキノコ薬膳のせいであっけなく死んでしまう話により暗喩されている。仏法は延命されると死んでしまうのである。いずれも0を恐れ、1以上の数であり続けようとしている。ブッダはそこを突いたのだ。0よりよいものはない、と。それは、全く静かな、しかしとんでもない革命だった。


 ブッダは自分の教えが此岸に住む者たち、有情、生命体にとって自らの教えはあまりにも酷なものとして理解されないと予見し、「止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。」と、説くことを躊躇した。生命体にとって生存の原因を滅し尽くすことは、恐怖以外の何モノでもない。そこで、釈尊は大悲大慈をもって生命体(有情)を見逃し、妊婦の出産を認め、スジャータを祝福する。この教えを理解するには、法を理解でき、なおかつ苦を知る人間に生まれる必要があり、畜生には言葉はわからない。また、寿命は長くとも天界の存在は快楽のあまり、己が生存に遠離の情を起こさないだろう。地獄の住人は苦痛のあまり、餓鬼は空腹のあまり聞法できない。


 修羅(アスラ)は闘争の原因を否定されてしまうので、耳を貸さないだろう。例えば、ソーマ酒を得るための労働を天(デーヴァ)と同じくしたのに、ソーマ酒を飲めたのは天(デーヴァ)だけなのだ。闘争相手の天(デーヴァ)との搾取関係を破壊して、生存状態の向上をはかるために闘争する。この両者の闘争は階級闘争という形で娑婆世界に反映される。天界では天(デーヴァ)対阿修羅(アスラ)間の闘争、資本主義社会ではプルジョワジー対プロレタリアート間の闘争となる。


 天の神々と阿修羅は数億年、あるいはそれ以上の時間、戦争を繰り返す。階級闘争は、搾取カーストから自己を防衛し,物心両面の生存状態の向上をはかるために、行われる。階級闘争の成功例では、搾取されていた下位カーストは古い生産関係を破壊し,新しい生産関係を創造することにより,生存状態の向上をはかる。しかし、ブッダは生存そのものを否定しているので、生存状態向上のための闘争もまた否定されてしまう。闘争という、存在の修羅の側面も否定されてしまうのだ。


 たまに、力の強い阿修羅王により天の神々が敗北する。それはヴリトラであったり、ヴィローチャナであったり、マハーバリだったりするが、その勝利もヴィシュヌやインドラの活躍により敗北するのがパターンである。修羅(アスラ)の、または彼らの反映である搾取される階級プロレタリアートに、その団結と闘争の勝利により有の感覚を増強して、我々は永遠なのだ、常住なのだ、と勘違いしてしまうことが問題だ。集団というのは有の感覚を強める。しかし、これらの有身見は無常なものだ。やがて、時の流れに敗北し分解され無に帰る。ソビエト連邦のように。しかし、彼らが一時的に勝利したのは確かだし、一時期は世界を二分する勢力ではあった。共産党は今や中国を中心とした東アジア、他はキューバにその勢力を保っている。


 プロレタリアートは同じく抑圧されている農民を同盟軍として戦うという。かつて、日本の農村は一揆という形で権力と戦った。一向一揆である。これは、日本オリジナルの階級闘争であろう。これは、仏教徒の起こした独立国とも言えるもので、仏教史において珍しい武装闘争を起こしている。比叡山の僧兵でさえ、大名と本格的な戦争を起こすことはなかった。


 浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された本願寺門徒による一揆の事である。本願寺派に属する寺を中心に、蓮如がいう「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにて阿弥陀仏をふかくたのみまゐらて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来すくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」という教えに従う武士や、農民が自治的なコミューンを作り上げ、集結して各地域に強固な信仰組織を形成していった。浄土真宗のコミューンは1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親と軍事衝突、勝利した。(加賀一向一揆)。次回は加賀一向一揆に焦点を当てたい。

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侵略への備え


 我々のすべきことは、中国の侵略を予見することであり、侵略に備えることである。中共の侵略は、ある時に必ず行われる。中共は虎視眈々とその時期を待ち構えている。老獪な人喰い虎のようにである。それは、南海トラフ地震に合わせて、侵略は行われるだろう。人道的支援、もしくは日本国内の中国人救出の名目で、大手を振って侵攻してくるものである。米軍基地は、南海トラフ相模トラフ連動地震によって、壊滅的被害を受けているだろうから、機能しない。自衛隊も、被害者救助に専念し、防衛機能が裸になっている時に、中共は必ず侵略してくるだろう。これはカルマであり、過去に侵略した国は侵略されるだろう。中国人には70年前の怨みを晴らすという大義名分があるのだ。全く怨みのないチベットや新疆でさえ、あのような目にあっているのだ。日本の天皇もダライ・ラマやパンチェン・ラマのように亡命か、暗殺か、という事態になるだろう。「日本解放第二期工作要綱」というものがある。いわば、アジア版の「シオン長老の議定書」のようなものである。陰謀論による偽書とされるが、まぁ、似たようなことは考えているだろう。


内容を紐解いてみれば、


①基本戦略として、「日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある」と書かれている。このほか日本のマスコミ、政党、政治家、極右極左団体、在日華僑に至るまでの工作手段が記されている、とされる。


②工作の初期においては、まずは「群衆掌握の心理戦」が実行されるとしている。文化事業を通じて中国への警戒心を無意識のうちに捨て去らせることが重要であり、そのことが「日本解放工作」の温床となり、「一部の日本人反動極右分子」を孤立させることに有効とされる


❷これはほぼ失敗している。チベットやウイグルへの弾圧、民族差別により警戒心はより激しくなっている。コロナウィルスもメイドイン・チャイナ説が囁かれている。


③工作員は2000人で、学界、マスコミ界、実業界に送り込むと記されている。スポーツや文化交流を通じて中国は「日本文化の来源」で、「文を重んじ、平和を愛する民族の国」とした印象・イメージを日本人に与えながら、中国語教師として工作員を送り込み、マスコミ工作を行うとともに、議員訪中団を招聘することなどによって日本に民主連合政府を樹立させるとしている。


❸訪中しているのはルーピー鳩山くらいである。アメリカを怒らせるくらいにしか、効果が見られない。


④性的な興奮を刺激する劇、映画、歌曲などを利用することが好ましいとし、逆に好ましくないものとして、スポ根もの、歴史もの、あるいは「ふるさと歌祭り」のように郷土愛や民族愛を喚起するものを挙げ、前者を多く、後者を少なく取り上げるよう誘導すると記されている。


❹どちらかというと、日本のAVに中国の男性は性的な興奮を刺激されている、という滑稽な状態だ。歴史やスポ根に関しては、るろ剣、鬼滅など明治、大正をモデルにしたものや、平安の呪術世界を現代に蘇らせた呪術廻戦、ハイキュー、弱虫ペダル、などのスポ根ものの日本のアニメが中国に逆輸入されているのが現状だ。


 工作はものの見事に失敗しているようにも見える。それて、この文書が偽書だからか、詰めが甘いように思える。この文書を作成した者の想像力を凌駕した事態が、行われているからだ。それほどにコロナウィルスの影響は甚大だ。東京オリンピックの失敗は勿論のこと、中共が世界に仕掛けた見えない戦争が巧妙な故に「日本解放第二期工作要綱」は色褪せて見えるのだ。中共は進化した。バイオテクノロジー、仮想電子通貨(デジタル人民元)AI、テクノロジーの進歩と資本投下により、進化は加速している。しかも、東京オリンピック失敗、緊急事態宣言による経済損失、そして近い将来にある南海トラフ地震により、日本が弱体化するのを待っている。怪我した獲物が弱るのを待つ人喰い虎のように


 しかし、日本の脆弱な現政権に、それを乗り切る力はないだろう。天皇家にしても、婿からの小室天皇なんて冗談が成立しそうなくらい、権威が失墜していると思う。では、我々はどうすればいいか?チベットや新疆のようになるのを、座して待つのか?


 こんなことを説いても、誰一人として賛同するものはいないし、三島由紀夫の気分である。自衛隊に決起を促し、日本を救おうとした三島に、自衛隊や国民は野次と嘲笑で答えた。左翼陣営のほうがまだ元気がよかっただろう。反日武装戦線や赤軍は、侵略者としての自分の親世代を批判、否定することから始まり、テロルに走り、分派して同胞らで殺し合うことで弱体化した。生き残りはアラブや北朝鮮まで逃走しドンパチをして、一部では英雄扱いされているが、それも海外勢力の政治的な手法にすぎないだろう。そもそも、日本を変えれてないし。そうして"アツい世代"が見事にコケて、モラトリアムの、クールなオタク世代が来た。村上春樹、ディスコ、バブル、新興宗教、コギャル、オタク…。自己本位の、享楽的な世代は、他者に冷たい、個々の趣味に熱中した世代となり、コントロールされやすくなった秀才たちを、コントロールに長けた者が操り、グルイズムのもとに左翼諸君もビックリのテロを起こした。警視庁長官を狙撃し、地下鉄に毒ガスを撒いた。しかし、日本は変わらず、オウム諸君もコケて、麻原は処刑された。まぁ、日本が変わらないでいるのはイラつく反面、頼もしいのだが、最近はどうも弱体化してきているような気がする。南海トラフの中共侵略のコンボによるカタストロフィは必ず来るし、日本はどうなるのか?と思案している。そこで、私は日本という国体は幻想であり、空であり、天皇制と神社と寺と、日本語という言語によってかろうじて支えられている、思想がバラバラのご近所の烏合の衆である、ということに気づいたのである。私は別に思想宗教文化の自由があり、民が幸せであれば世界政府が統治していたっていい、ただ、コミンテルンや中共による統治はまっぴらごめんだ、という自らの思いに思い至ったのである(続く)。


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仏教徒から民族主義者への回答3


 死滅への恐怖(無明)から正反対に突っ走っているのが生命体(有情)ならば、その恐怖を無くしてしまえば、生命体は存続しなくなるだろうし、種族自体が滅亡を何とも思わないのならば、滅亡は必至である。人類は恐竜のように地球上からいなくなるだろう。しかし、恐怖心(無明)は起こるだろうし、それは生命体としてしょうがないことだ。


 死滅への恐怖(無明)が、子の誕生により軽減するものならば、まさしく生命はうまくできている。生命の畑を耕せば、実り()が生じる。親は遺伝子の軛から解き放たれ阿羅漢果を得る。子を造ったものたちは、もはや自分は抜け殻であり、実は娑婆世界に播かれた。死を待ち、二度と再生しないことを望む心境にはなりやすいだろう。しかし、実際には子の存続を願い始めると、また様々な苦しみが生ずるだろう。


 作戦はひと段落ついた、と遺伝子を油断させるところにあるかもしれない。遺伝子の生存プログラミングが解除されることにより、乳粥に貪りを感じず、味もまたしなかったのかもしれない。思うに、チュンダの料理にも危険な味がわからなかったために完食してしまい、般涅槃に至る原因になったとも推測できる。遺伝子の鎖が破壊されているので、危険な味もわからなかったのでは?彼岸のものは果たして、此岸の感受を受けるか?というのは疑問である。もはや、悟った彼は生命体ではないのだ。


 ただ、生命体にはロックがかかっている、恐怖(無明)が尽きるのは子供が誕生した後の場合が多いようだ。釈尊しかり、龍樹大士は呪術で透明人間になり、王宮の王妃たちを孕ませる失敗の後に、仏道を志した。


 予め子を造ることなく、その境地に到達するものもいるだろう。遺伝子欲求の希薄なものたちである。こういう人たちは、自殺しやすい。世界では年間で80万人の人が自殺している。もし、予め子を造ることなく、戒律を子供の時から守るような社会ができれば人口は激減する。それは、地球環境にとっても良いことかもしれない。未だ生まれていないうちに不生が決定するならよいが、今、已に生まれて老いつつある人たちはどうするのだろうか?今や、終活という言葉もあり、また孤独死する老人も多い。ターミナルケアやビハーラがクローズアップされている。宗教、葬儀業界、特殊清掃業界もそれに合わせて、変化してきている。必要なのは死に場所であろう。じっとりとした不快な病室で、アパートの一室で孤独に、死を待つのはつらく、過去の感覚の鮮明だったころの追憶にふける老人たちを思う。死に場所、死すべき時期を逸した、彼らに救いはあるのだろうか?己が無となり二度と再生しないことは幸福である、その理解に到達するものは少なく、外道の天国や、異世界転生や、また人に生まれ変わることを孤独な病室で思うのだろう。これは精神的な延命だ。或いは、子供や孫の繁栄を願う。これは肉体的な延命だ。


 しかし、それはゲルマン民族にしろ漢民族にしろ大和民族にしろ、永遠の繁栄を祝う民族主義者たちにはありがたくないものだろう。少数のマイノリティを生贄に永遠の繁栄を祝うのは、民族主義者たちの常套手段であるし、ナチスとユダヤ、大日本帝国と朝鮮、中共とチベット、ウイグルを見れば歴史は繰り返すということがわかるだろう。原理自体が平等なものではない、今の中国共産党は共産主義ですらなく、スターリン主義の独裁国家でしかない。一国社会主義と言いつつも、ウイグルを解放すると言いつつ近づいて、男性を殺して漢民族男性にウイグル女性を孕ませる、たいした生存志向だが、漢民族は生存本能、言い換えれば死滅への恐怖(無明)が多大な遺伝子傾向であるために、不老不死などの「仙道」が発展してきた。曇鸞は「仙経」を焼き捨てて菩提流支の浄土教に帰依したが、自らの無明(死への恐怖)、行(生存志向)に気づいたのかもしれない。


 自らの生存欲求を焼き捨てて、浄土を目指す不断なる活動が必要である。生命体の、生存欲求に根差した差別や弾圧、一部の人たちの繁栄は絶えず起こるものだが、彼らは不平等の柵を越えられないものとする統制により、自分たちの生存を安定させる権力の塔(バビロン)を建てようとしている。この権力の塔を揺るがす闘争は、そのまま菩薩の修行であり、己が生存を投げ捨てて、死の恐怖を超克する仏の兵士は必ずや浄土に到達する。必要なのは死に場所だ、老人ホームや病室で五欲の楽の追憶に耽っていては往生もおぼつかない。阿弥陀仏の浄土には修羅道のものはいる、とあるので、これらの闘争に身を投げ打ち死ぬ人は皆、極楽浄土に到達する。


 涅槃経の第三には「善男子・正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして応に刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」とある。


 あえて戒律を受けない道もあるのだ。思うに、法然、親鸞と本願を選択したのは、仏の兵士を育てようとした、とも思う。戦闘に際してのんびりと観想している暇はない。農民の敵は年貢を課すお上である。法然は後に、一向一揆が生ずるのも予見していたのではないか?故に法然は島流しになった。親鸞はその教えを徹底した。逃走中、戦闘中に仏像は持ち運べないので、名号を礼拝した。親鸞の公的な記録は一切無い。朝廷や幕府にとって都合が悪いからである。


「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」ー歎異抄


 本願の前には皆、平等だ。不平等の柵、カースト、階級の塔(タワー)は仏教に反するものである。これらの権力のタワーを揺るがし、倒すのは、平等な横の力、その波及であるところの分散ネットワークしかない。ネットワークは階層性を侵食するが、このようなネットワークをファーガソンはスクエア(広場)と呼んだ。人類の歴史はタワー(権力)とスクエア(平等)のせめぎ合いであるという論考である。ネットワークは通信手段の発達により広まり、このような広まりを伝道とも広宣流布とも言う。テクノロジーの発達は横軸のネットワークの発達を促す。良い例が蓮如上人の手紙を用いた伝道である。これは、御文、御文章とも言われるが、この伝道上の発明は浄土真宗教団という、強力なネットワークを作り出すことに成功した。このネットワークでは武士から農民までが階級無く平等であり、やがて信長という天下人の塔を揺るがすことになる(石山合戦)


 死力を尽くして戦え、そうすれば浄土はこの世に降りて来る。進者往生極楽 退者無限地獄(進めば極楽、退くは地獄)。


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