寿萬寺
管理人:JUMANJI ©Equinox
日本の少子化、先進国の少子化は進む。テクノロジーの進歩により欲望にある程度満足し、死の恐怖の希薄な国では、子孫を残す欲求が少なくなるからだ。
死滅への恐怖を元にして微生物から進化してきた「我ら」衆生。
生物学的に見たる《十二縁起》をここに羅列する。
消滅への恐怖、即ち無明を因として、その反動の生存意志であるところの行が生じる。生存意志は、己の情報であるところの識、つまり遺伝子を残し、遺伝子という設計図の元にその生物固有の精神と肉体、即ち名色が生じる。
精神は思考器官、肉体は眼耳鼻舌身の感覚器官としてその身に備わり、それぞれの対象と接触することにより、感受作用を生ずる。感受作用からは苦痛と快感の振幅、苦楽のパルスが生じる。その振幅の傾向だが、生物は遺伝子により予めバイアスが組み込まれている。
遺伝子の設計図(識)は生物を細胞レベルでコントロールしている。生物は苦痛を忌避し、快楽を感じる方向へ進む、これを渇愛と言う。そのベクトルに種として生存の可能性があるからである。渇愛を原因として、快楽を感じる対象との接触、快楽を感じる行為を繰り返す。
この止まらないループは執着とも呼ばれるが、そのループにより生物のメスの体内には遺伝子がコピーされ妊娠する、この妊娠即ち新存在の有があり、そして生まれがあり、老死がある。老いと死を見た生物の子孫は、消滅への恐怖を感じ、反動から生存意志が生じて、この生命輪廻の永久機関からは逃れ難い。
消滅を恐怖することを原因として、延命、そして自己の分身の系譜。欲望は生命体の存続のためのチョウチンアンコウの灯りであり、欲望の方向性は生命体存続のための緻密なアルゴリズムにより敷かれたレールによる。生命は消滅への恐怖をガソリンにして無意味に回る車輪である。生命体の複雑なアルゴリズムは、消滅から逃走するために信じられないほど複雑に進化してきた。しかし、そこそこテクノロジーが進歩し、経済も発展し、平和が続いた。恐怖が無くなれば、生命という車は走らない。少子化の原因はそこにある。
電子銃から電子を発射して、向こう側の写真乾板に到達させる。その途中は真空になっている。電子の通り道にあたる位置に衝立となる板を置く。その板には2本のスリットがあり、電子はここを通らなければならない。すると写真乾板には電子による感光で濃淡の縞模様が像として描かれる。その縞模様は波の干渉縞と同じであり、電子の波動性を示している。
この実験では電子を1個ずつ発射させても、同じ結果が得られる。すなわち電子を1度に1個ずつ発射させることを何度も繰り返してから その合計にあたるものを写真乾板で見ると、やはり同じような干渉縞が生じている。電子が振動している波だからである。
量子の世界はおもしろい。
鉄、あの硬い鉄は26の電子と、同じく26の陽電子、そして中性子の組み合わせで存在している。ある意味、電気的な波のようなものだ。
鉄というものも、電子の波なのだ。
電子を粒子として、原子核のまわりをクルクルと回っているとイメージしてきたが、じつは電子は原子核の周りに波として存在している。粒子としての電子がどこにあるのかを確かめようとすれば、観測という行為の反応がどこか一点に収縮するということだ。これは電子雲という存在確率のクラウドが原子核の周りにあるということで、電子粒がクルクル回ってるわけではない。原子核のほうも電子と同じ数だけの陽電子(鉄だったら26個)と中性子の薀にすぎない。
では、26個はどうやって数えるのだろう。
0.1秒前に光が反射して現在に投影され、0.1秒後に現在の光の反射が脳内に投影される。喩えて言うならばビデオで撮ったものを0.1秒後に再生し続けている。なので、我々が見ているのは現在ではない。
視覚野に再生されない、感官に現れない現在。実際の現在進行形では何が起こっているのか?現在進行形で感受作用を処理しているのである。なので、感覚化されては出てこない。激辛や激痛が0.1秒のスパンあり知覚化されるようなものである。では、どのように現在進行形を証明するのか?
この場合、感覚(色)と思考(名)を切り離して証明しようと試みる。つまり、私は今、感官により外界の情報を感ずるのではなく、純粋に意識内で考えているので現在時間は経っているとする。さらに、その推測を対象に推測中であるので、現在進行形であろう、とする。(私は今考えているなぁ、と考えている。)
しかし、これだと、現在推測中であると、推測しつつある、と推測しつつある、と推測しつつある、推測しつつある、と推測しつつある、と推測しつつある…とラベリングしていると無限循環に陥ってしまう。その理由は、灯明に喩えられる《認識のはたらき》がラベリングされた認識結果を間断なく認識し続けているからだ。常に、今、灯明の光は照らし続けている。この無限循環が故に現在[去りつつあるもの]は過ぎ去らないのだ。不断なる認識が過ぎ去ることはない。[認識作用]は去らない。
しかし、去りつつあるものが[認識内容]とするとどうだろうか?概念[法]は前後裁断され因果を遠離している(辞書に載った火という字)のように、なので時間が適応されない、という説、反論として概念[法]に何月何日何秒に考えた法として時間は適応される、という説がある。これらは去るだろうか?まず、火という字は[認識作用]に照らされない限り存在しないので時間は適応されず、まさに灯明に照らされたその時、にしか存在しない。また、何月何日何秒に考えた概念[法]は全てその時には(刹那前に過ぎ去って)認識されず、刹那後からはるかな未来に再び脳に記憶としてリロードされる。しかし、リロードされたその時にのみ[認識内容]は存在している。また、時間が川の水のように存在して流れているのではなく、[因果を推測する脳のシステム]により、知覚対象、概念対象のそれぞれの関係性(縁)、因果関係を分析して時間の流れを再構成しているのだ。
0.1秒前の過去と感ずる方角から光が反射して現在に投影され、0.1秒後に現在の光の反射が脳内に投影される。時間にしておよそ十刹那である。この十刹那のタイムラグは永遠に超えられないので、極楽浄土までの十万億土の距離と変わらない。この十刹那のタイムラグが現在の前後を裁断しているのだ。
喩えて言うならばビデオで撮ったものを0.1秒後に再生し続けている。では、ビデオテープに時間は流れているか?厳密には流れてないだろう。脳に投影された映像は刹那過去の再生なので、時間は流れていない。つまり、現在去りつつある体感時間は、已に去っているため、去らないのだ。また現在撮りつつあり、0.1秒後に再生される映像は、まだ発生していないので去っていない。
視覚野に再生されていないが、感受作用中(去りつつあるもの)は身体機能上のブラックボックスに隠されている。そこに時間は流れているのだろうか?いや、時間は流れていないのだ。読者は隠されてはいるが感受作用が働いていると推測できるので現在進行形で時間は流れているのではないかと反論するだろう。
しかし、この推測がそのまま答えなのだ。感受作用が自らのはたらきやその時間を知覚するということはなく、感受結果から遡行して推測した結果、時間が流れたと推測しているにすぎない。この遡行して因果を推し量る能力こそが時間の流れの正体だ。
認識の外に時間は流れていない。たとえ作用が確認されても、その作用に時間は存在しない。時間の流れを感受する知覚器官など脳や体のどこにもないことは最新医学の研究でわかっている。それがないのは、時間の流れが本来存在しないからだ。あるのは[因果を推測する脳のシステム]である。知覚対象のそれぞれの関係性(縁)、因果関係を分析して時間の流れを再構成しているのだ。
認識の不在という闇の中、時間は存在せず、バラバラな情報の束を、我々の脳に予め備わった[因果を推測する脳のシステム]が時間を成立させている。時間は流れておらず、我々の肉体という衣の裏に予め縫い込まれた[因果を推測するシステム]という宝珠が因縁果報に沿って頭の中で再構成したのが時間の流れである。実際の脳の外側では光と音やその他情報のカオス的な嵐である可能性が高い。
実際のところ例えば桜は人間のように脳で四季や暖かさを知覚するわけではないが、その時と温度を原因として感受し、結果として春に開花する。これは桜が時間を知覚しているわけではなく、ある条件が整うと開花するように識(DNA)が構成されているからである。つまり、ある条件が整うことにより、時を知るのだ。この諸条件を[縁]という。
ཨོཾ་མ་ཎི་པདྨེ་ཧཱུྃ