"Equinox"について


卍 寿萬寺 卍

         

管理人:HEBI ©Equinox


謹賀新年

2021年、あけましておめでとうございます。コロナ禍なので、おめでたくもないですね。

元旦からの1週間、思ったことをつらつらと。

人は相手の願いを叶えようと、その願望の姿をとろうとします。
様々な人の様々な願いは重なるのが難しいですが。仏や天部の神々しかり、衆生の願望のあらわれ。我々ですら父母や先祖の願望のあらわれだったりします。そう思うと他者の願望で構成された私、なんて思い当たります。他に依って生起しており、他者の願望を剥ぎ取ったら、自分なんて無いのかもしれません。問題はその願望がいつの時代から残っているか。


私の思った、と思っていることは、他者の感情やエネルギーを反映したものです。自分をゼロにしたって、いつのまにか他者の思念を自分のものとしてます。自分なんていう単位は無いとすれば、願望を発する当人たちは有るのだろうか?


正月には取り留めのないことを考えてしまいます。


閑話休題。阿弥陀さんの話しを少々。


世自在王仏がシヴァをモデルにしているのならば、願いを叶える存在とされてもおかしくありません。となれば、法蔵比丘の制約と願望は、どう働いているのか?念仏に重きを置く宗派では呪術を禁じてますが、どうも呪術的です。漫画を例にすれば、ハンターハンターのクラピカやゴンの誓約と念能力、呪術廻戦における「縛り」や情報開示が術者の能力を底上げすることを考えれば、その誓約によりエンペラータイムなり、強制的成長なり、無量空処なり、天与呪縛のフィジカル能力なりを得るわけです。


法蔵比丘を世自在王仏を勧請したサマナーみたいな者と考えると、わかりやすいかなー、と。


念仏者は法蔵比丘と世自在王仏の「契約」を重んじています。誓約、つまり犠牲になるものは、法蔵比丘じしんの「悟り」であり、願望は「極楽浄土」の建立です。さてはて…我々、大経の読者はその誓約と願望を信じることにより、ある種、法蔵比丘を世自在王仏へ生贄にしているようなところがあります。

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宇宙のサイクルと阿弥陀仏

阿弥陀仏は十劫も昔に成仏したという。一劫が約432000万年、十劫は432億年である。432億年も前はビッグバン以前ということになる。現代物理学でらビッグバンは今から約138億年前と計算されている。この宇宙の発生する前に法蔵菩薩は成仏したということになるだろうか。つまり、阿弥陀仏は、この宇宙ではなく、この宇宙発生前の、前のサイクルの宇宙で成仏したということになる。法蔵菩薩は五劫、つまり216億年かけて思惟し、432億年前に成仏した。その後、前のサイクルの宇宙は消滅したが、摂取不捨の阿弥陀様なので、前のサイクルの衆生は全て救われた、と考えることはできる。因みに、現在のこの宇宙は、1400億年以上は寿命が持つと、東京大学の研究チームが発表している。すばる望遠鏡の観察による、ダークマターの増加率から計算した結果らしい。


さて、有名な十八願に


たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。


と、ある。


「わが国」であるところの「光りの国」であるところの西方極楽浄土は、432億年前、前のサイクルの宇宙の存在中から、消滅後も、このサイクルの宇宙の誕生後も存在し続けていて、経典通りならば、我々仏教徒は死後、そこに往生し、蓮華から誕生する。


しかし、これについて私にはある謎が生じた。現代の念仏者が、未だ往生するかどうか未確定のため、この十八願の十方の衆生に、このサイクルの宇宙の我々現代人類が含まれるのか?という疑雲が生じたのだ。十方は三世ではないのだ。例えば、前サイクルの宇宙において、阿弥陀仏が成仏した時期、かの十八願の条件は満たされて、法蔵菩薩は正覚を取り、成仏したのかもしれない。なるほど、阿弥陀仏は同じ条件の念仏衆生を救済し、我々は蓮華生するかもしれない。しかし、現サイクル宇宙の、現代においては、往生に至る十八願の法的拘束力は、ないことになる。


ここら辺の曖昧さが、日蓮主義者に、現在の衆生を救うのは釈迦仏とされて念仏者が批判される穴となっているのかもしれない。三世仏においては阿弥陀仏が過去仏、釈迦仏が現在仏、弥勒仏が未来仏とされている点も、阿弥陀の願力が現代のこの宇宙において効力を確実に発揮しているのか、釈迦仏こそが現在のこの劫のメッティヤなのでは?という疑問から、日蓮主義者やテーラワーダや、禅や瞑想センターの人達まで、釈迦仏に回帰している理由なのかもしれない。奇しくも、本日は成道会である。


では、阿弥陀仏がこの現サイクルの宇宙において、この時代の衆生を救う、根拠となるお経はあるのか?


今、探しているところである。

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方便としての爬虫類人種論

自分をよくしたい、自己保存、自己を美しく高貴にしたい、から修行するのか?よりすばらしい状態になりたいから?天人五衰という言葉がある。人は、あらゆる生物は、消滅への恐怖のため、形成作用をもって、自己の肉体や精神の保存を図る。自己保存、延命は、消滅への恐怖を原因とした結果である。不老長寿を求める仙道や、美容のための気功、強さのための武術気功も、冨貴を求める風水も、美容は種の保存のため異性を惹きつけたい本能の結果、強さは自己やその分身である子供やそれを産んでくれる女を守るため、冨貴も自分や一族が飢えないために必要なのだ。つまり、完全消滅からの距離を遠く置きたいがために、化粧、服装、医療、教育、兵器、経済、農業、狩猟、牧畜は発展してきた。


消滅への恐怖こそは、根本無明であり、それに対する悪足あがきの結果が現在の人類である。仏教や一部の外道は、逆にその消滅を目標として、輪廻からの脱却という思想を教えとして、様々な方便を考えた。本来ならあり得ない、消滅や死へ向かう思想を、うまく人間の文化に混ぜていったのである。死後の永続を願う天国思想を完全消滅である涅槃までの修行場としての浄土にすり替えた。あらゆる有情が消滅を安楽の元に受け入れる思想を流布するために、逆にあらゆる有情が涅槃に赴くまでは、自分はあえて消滅しない菩薩なるものをひねくり出した。消滅への反動のために肉体レベルで働く形成作用であるところの生殖行為を、戒律により否定する僧侶という生き方を定着させた。生存に有利であるところのあらゆる行為をせずに只、座って無為に過ごす禅を編み出した。


仏教は、祭祀や供養をして、神々やアッラーなどの上位存在からご褒美を貰う宗教とは根本的に違う。しかし、仏教でない外道の中でも、中々に仏教的な方便に似たようなものがある。所謂、異端とされたボゴミル派やカタリ派などの、この世は悪の神が創作した理不尽な産物であり、そのために真の神がキリストを遣わしたとして、繁栄を約束する旧約の神を否定した。彼らは物質や肉体は邪悪な創作物としているので子孫を造らない。それでも、個我の精神的な永続性を求める天国思想だったのは残念。


また、近年はその隔世遺伝的な学派が登場した。ゼカリア・シッチンにより主張された、アヌンナキなどのシュメールの神々や、デビット・アイクの主張する爬虫類人類、いわゆるレプティリアンに我々人類は遺伝子的操作を受けたというもの。これらの学派の主張するアヌンナキやレプティリアンが、本当に存在するかどうかはどっちでもよい。ただ、人類が家畜であり、畑のキャベツであり、SEXを面倒くさがる高等宇宙人に創作された年中繁殖可能な猿だとしたら。また、彼らの遺伝子が猿たちに混入されていたら少なくとも自己保存欲求や、一族の繁栄欲求は減退するに違いない。少なくとも肉体レベルの形成作用である〈生殖〉には疑問を抱くだろう。見事な方便だと想う。我々よりわかっていない、人類よりも消滅への恐怖を抱いているであろう高次元存在に全責任をなすりつけることができるし。

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阿弥陀仏と空

極楽往生とは、救われる、とはどういうことであろうか?いったい「何」が救われるのだろうか?浄土真宗聖典の顕浄土真実教行証文類 50頁にはこうある。


凡夫が思っている実体としての衆生や

凡夫が考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない(中略)

あらゆるものは因縁により生じるのであるから、もとより実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。


とすれば、阿弥陀仏に救われる衆生とは何であろうか?いったい「何」が十万億土を踏んで西方極楽浄土へ旅立つのか?転生の主体であるとされるいわゆる魂=プドガラが、ご浄土へ赴く。しかし、そのプドガラに実体がないことが正しい理解であるということであれば、いったい何が何処へ赴くのか?また、阿弥陀仏が実体の無いものを救う、ということはどういうことなのであろうか?救う阿弥陀仏じたい成立するだろうか?

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キリトリ

存在しないモノの色・受は存在せず、付託できないので想もなく行により虚構され、識により分別された名、言語概念のみが仮に有るという片輪走行。


と、これの反対が対象のある場合、焚き火を見る時、色・受は有る(熱く、明るい)ようで、概念上言語上の焚火が虚構であり、その言葉は熱くも明るくもない、という理解の逆の方向にある。感覚のほうが実に有るという片輪走行。


存在しないモノ、言語概念のみしか存在しないモノ、存在しない状態、非在を成立する、認めるとするならば(例えば非在の状態になりたいなど)、その反対の存在するもの、存在物は、自性あり、それ自体で成立して常住ということになりやすまいか?


つまり、非在の成立を問題にするならば、その反対の存在の自性も成立するとなるしかし、その存在なるものは、始めから名の、概念の括弧によりアポーハされているのである。そして、概念を感覚で補強して存在と言っているのが現状。


言語概念だけで言えばそもそも虚構、因果を遠離して前後裁断されているとわかれば、そんな自性だの常住だのそれ自体で成立なんて言わない。そもそも不生という。発生してないもの(概念)は、それ自体でも成立しない。また、発生してないものの反対はそもそも成立しない。


そもそも、非在の反対は存在とか言う説が多いが、非在だったら片方のつっかえ棒にもならんので、存在も成立しないだろう、言語概念、論理上は。


また、存在するモノ、と存在するコト、に分けるとすれば(縁起理論上それはダメだが)、存在するコトは存在するモノの『時間』ということになる。


始めからステルスで括弧される、名の括弧を自覚すれば、そしてその名、概念を対象とした有無の分別認識はナンセンスだ。それは虚構なのだから。また、有る無しの分別はあくまで認識上の働きなので、その分別も空(虚構)であることが了解される。分別の対象が空(虚構)だからである。


私たちは〈全て〉から対象を切り取りアポーハしてから、名、概念により、存在としている。それは、認識内形象の全てをいったん認識し、そこから2次的に諸存在、諸法を概念化しているのだ。認識内形象は概念知の対象ではないので、1次認識ではそれは未だ分かたれてはいない。


物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体などはあり得ない。例えば、石そのもの、などということはあり得ない。石本体なんてものを想定する時に已にナーマでカッコされそれは概念なのだ。石と分別する前は石は何だったのか、全体の一部であり未だ分かたれてはいない。


認識内形象においては、石の他にも大地や草、空や人や建物、車、火や風、水を認識しているはずであり、なお認識内形象においては未だ概念知による分別、識別の対象ではない。つまり、石は石と未だ識別アポーハされずに、ただ諸々の形象として映っているのである。


それをいきなり石、と言語概念枠がすでに最初からあり、石の石自性を想起してしまっている。普遍的石、石本体、石ロゴスを神の創造した石の鋳型とした一神教。または、石を神として祀るアミニズムなど。


そのような本体論を認めると、石そのもの、石本体の大脳上のコピーが石の認識内形象という中途半端な説が出てくる。言語概念ナーマはそのコピーのコピー(長期記憶保存のための)というのは人の言語認識発生史上のことで、本体論を考える時には始めから潜在意識に概念の型がある。尻尾が先か頭が先か、みたいなことだ。


〈全て〉からのキリトリ作業が先にある。それをアポーハと言う。


そのため、石の神や火の神や風の神など普遍を神格化した神々は仏教と本来なら相容れないものだ。仏教はここでヴェーダ思想とは袂を分かつ。

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