"Equinox"について


卍 寿萬寺 卍

         

管理人:HEBI ©Equinox


仏教徒から民族主義者への回答3


 死滅への恐怖(無明)から正反対に突っ走っているのが生命体(有情)ならば、その恐怖を無くしてしまえば、生命体は存続しなくなるだろうし、種族自体が滅亡を何とも思わないのならば、滅亡は必至である。人類は恐竜のように地球上からいなくなるだろう。しかし、恐怖心(無明)は起こるだろうし、それは生命体としてしょうがないことだ。


 死滅への恐怖(無明)が、子の誕生により軽減するものならば、まさしく生命はうまくできている。生命の畑を耕せば、実り()が生じる。親は遺伝子の軛から解き放たれ阿羅漢果を得る。子を造ったものたちは、もはや自分は抜け殻であり、実は娑婆世界に播かれた。死を待ち、二度と再生しないことを望む心境にはなりやすいだろう。しかし、実際には子の存続を願い始めると、また様々な苦しみが生ずるだろう。


 作戦はひと段落ついた、と遺伝子を油断させるところにあるかもしれない。遺伝子の生存プログラミングが解除されることにより、乳粥に貪りを感じず、味もまたしなかったのかもしれない。思うに、チュンダの料理にも危険な味がわからなかったために完食してしまい、般涅槃に至る原因になったとも推測できる。遺伝子の鎖が破壊されているので、危険な味もわからなかったのでは?彼岸のものは果たして、此岸の感受を受けるか?というのは疑問である。もはや、悟った彼は生命体ではないのだ。


 ただ、生命体にはロックがかかっている、恐怖(無明)が尽きるのは子供が誕生した後の場合が多いようだ。釈尊しかり、龍樹大士は呪術で透明人間になり、王宮の王妃たちを孕ませる失敗の後に、仏道を志した。


 予め子を造ることなく、その境地に到達するものもいるだろう。遺伝子欲求の希薄なものたちである。こういう人たちは、自殺しやすい。世界では年間で80万人の人が自殺している。もし、予め子を造ることなく、戒律を子供の時から守るような社会ができれば人口は激減する。それは、地球環境にとっても良いことかもしれない。未だ生まれていないうちに不生が決定するならよいが、今、已に生まれて老いつつある人たちはどうするのだろうか?今や、終活という言葉もあり、また孤独死する老人も多い。ターミナルケアやビハーラがクローズアップされている。宗教、葬儀業界、特殊清掃業界もそれに合わせて、変化してきている。必要なのは死に場所であろう。じっとりとした不快な病室で、アパートの一室で孤独に、死を待つのはつらく、過去の感覚の鮮明だったころの追憶にふける老人たちを思う。死に場所、死すべき時期を逸した、彼らに救いはあるのだろうか?己が無となり二度と再生しないことは幸福である、その理解に到達するものは少なく、外道の天国や、異世界転生や、また人に生まれ変わることを孤独な病室で思うのだろう。これは精神的な延命だ。或いは、子供や孫の繁栄を願う。これは肉体的な延命だ。


 しかし、それはゲルマン民族にしろ漢民族にしろ大和民族にしろ、永遠の繁栄を祝う民族主義者たちにはありがたくないものだろう。少数のマイノリティを生贄に永遠の繁栄を祝うのは、民族主義者たちの常套手段であるし、ナチスとユダヤ、大日本帝国と朝鮮、中共とチベット、ウイグルを見れば歴史は繰り返すということがわかるだろう。原理自体が平等なものではない、今の中国共産党は共産主義ですらなく、スターリン主義の独裁国家でしかない。一国社会主義と言いつつも、ウイグルを解放すると言いつつ近づいて、男性を殺して漢民族男性にウイグル女性を孕ませる、たいした生存志向だが、漢民族は生存本能、言い換えれば死滅への恐怖(無明)が多大な遺伝子傾向であるために、不老不死などの「仙道」が発展してきた。曇鸞は「仙経」を焼き捨てて菩提流支の浄土教に帰依したが、自らの無明(死への恐怖)、行(生存志向)に気づいたのかもしれない。


 自らの生存欲求を焼き捨てて、浄土を目指す不断なる活動が必要である。生命体の、生存欲求に根差した差別や弾圧、一部の人たちの繁栄は絶えず起こるものだが、彼らは不平等の柵を越えられないものとする統制により、自分たちの生存を安定させる権力の塔(バビロン)を建てようとしている。この権力の塔を揺るがす闘争は、そのまま菩薩の修行であり、己が生存を投げ捨てて、死の恐怖を超克する仏の兵士は必ずや浄土に到達する。必要なのは死に場所だ、老人ホームや病室で五欲の楽の追憶に耽っていては往生もおぼつかない。阿弥陀仏の浄土には修羅道のものはいる、とあるので、これらの闘争に身を投げ打ち死ぬ人は皆、極楽浄土に到達する。


 涅槃経の第三には「善男子・正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして応に刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」とある。


 あえて戒律を受けない道もあるのだ。思うに、法然、親鸞と本願を選択したのは、仏の兵士を育てようとした、とも思う。戦闘に際してのんびりと観想している暇はない。農民の敵は年貢を課すお上である。法然は後に、一向一揆が生ずるのも予見していたのではないか?故に法然は島流しになった。親鸞はその教えを徹底した。逃走中、戦闘中に仏像は持ち運べないので、名号を礼拝した。親鸞の公的な記録は一切無い。朝廷や幕府にとって都合が悪いからである。


「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」ー歎異抄


 本願の前には皆、平等だ。不平等の柵、カースト、階級の塔(タワー)は仏教に反するものである。これらの権力のタワーを揺るがし、倒すのは、平等な横の力、その波及であるところの分散ネットワークしかない。ネットワークは階層性を侵食するが、このようなネットワークをファーガソンはスクエア(広場)と呼んだ。人類の歴史はタワー(権力)とスクエア(平等)のせめぎ合いであるという論考である。ネットワークは通信手段の発達により広まり、このような広まりを伝道とも広宣流布とも言う。テクノロジーの発達は横軸のネットワークの発達を促す。良い例が蓮如上人の手紙を用いた伝道である。これは、御文、御文章とも言われるが、この伝道上の発明は浄土真宗教団という、強力なネットワークを作り出すことに成功した。このネットワークでは武士から農民までが階級無く平等であり、やがて信長という天下人の塔を揺るがすことになる(石山合戦)


 死力を尽くして戦え、そうすれば浄土はこの世に降りて来る。進者往生極楽 退者無限地獄(進めば極楽、退くは地獄)。


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仏教徒から民族主義者への回答2

 私や、それを含めた集団が、無有愛により苦しみに満ちた娑婆世界から逃げだそうという願望を抱くとしよう。一切皆苦、全ては苦しみであるので、そこから逃れるための行為は正しく、間違っていない。問題としては、肉体の死滅が間近になると、心は精神上の延命を試みる。すなわち、来世や転生を信じ始めるのである。より良い世界、色界や無色界への転生や極楽往生を心は画策する。それでは、正しい寂滅の理解とは言えない。最近流行っている異世界転生、色界、無色界への転生、来世のパラダイスへの期待は、寂滅への正しい理解とは違う、精神上の延命行為である。


 極楽浄土は巧みな方便である。インドに侵入したキリスト教に対抗して作られた浄土経典は、キリスト教の常住の天国(パラダイス)に極めて酷似しているが、阿弥陀仏の第11願の必至滅度の願、でさらりと極楽浄土に来たものは必ず涅槃(絶対死、滅度)を迎えるとある。また、一神教のロゴス的な常住思想と差異を明確にするために、第4願の無有好醜の願により、極楽浄土では故人は故人の姿をとっておらず、皆、エージェントスミスのように同じ姿とされている。むろん、仏像的な姿なんだろうけれども。故人として永遠、常住ではないのである。そして、必ず滅度がある。極楽浄土はパラダイスではなく、れっきとした修行道場なのだ滅度に必ず至る為の。そこをパラダイス風のオブラートに包んでいるのである。


 極楽浄土への往生はゴールでなく通過点の化城の如きものである。余談だが法華経は阿弥陀仏という鍵を差し込むと、よく理解できるのである。化城喩品は極楽浄土のことを言っている。阿弥陀仏は無量光と無量寿という特徴があるが、無量光は序品に表され、無量寿は如来寿量品に表される。序品では仏の白毫から放たれる光が「東」へ向かい、三千世界を照らし出す。ので、光の発生源である仏は「西」にいらっしゃるのだ。如来寿量品では、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて迦耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我は実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由多刧なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を仮に人ありてすりて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が無くなるまで、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、いなや」と弥勒菩薩等へ言われた。「東」へ行く人のスタート地点は「西」なので、ここでも仏は西方にいることが暗喩されているのである。法華経には西極の蓮華座に仏が座していることが秘められている。キーは阿弥陀仏である。阿弥陀仏は西にいる。では、西とは何の象徴であろうか?それは四門出遊をよくよく考えてみればわかるだろう、西とは死のことである。仏は彼岸、死の方向から現世に語りかけている。


西、死、無、滅度、涅槃の側に立ち、悟りということを考えてみよう。悟りは無明という根本恐怖の消滅であり、そこに至ったら子は生まれず、種子(遺伝子)も残されない。そもそも、戒律を守っていたら子は造れない。しかし、そこでいくつか疑問が出るだろう、釈尊にもヤショダラとの間に羅睺羅という子がいるということ。釈尊の子ついては、他にも優波摩那や、善星など子がいたと伝えられている。出家前にしろである。また、スジャータの子を授かりたいという願を因として悟ったこと。元殺人鬼の弟子アングリマーラに難産の妊婦の助産を手伝わせていることなどだ。遺伝子を残さない主義者だったら、そんなことはあり得ない。遺伝子を残さない主義者であるならば、種としての人類滅亡を幸せと説く宗教思想となる。しかし、仏法に「主義主張」はないだろうし、そんなことにもなっていないようだ。


「遺伝子欲求を逆手に取る」


逆に、出家前に子を成したことにより、遺伝子が安堵して、もう自分は死んでいいよ、と悟りやすくなっているののではないだろうか。スジャータは子を授かるように樹神に願をかけ、結願した。釈尊を樹神と勘違いして、お礼として乳粥を捧げた。その時、釈尊になんと言っただろうか?おそらく、儀礼をするとしたら「おかげさまで元気な子を授かりました」といった内容の表白を読むのではないだろうか?子を授かったという言葉に、かつての自分の子どもたちを授かった時の記憶が瀕死の釈尊の脳裏に走馬灯されたであろうことは想像に難くない。遺伝子欲求はそこで、自らの乗り物に死の恩赦を与えたのではないだろうか?つまり、ここで無始からの貪瞋痴の鎖は切れたのである。だとすると、乳粥に貪りを感じなかったのかもしれない。


その乳粥を原因として正覚を成就した、悟り得たというのは実に奇妙なことである。自ら子を産むだけでなく、他者へお布施して無意識のうちに生命を生かしているもの(生命の母性)が、死の至福認識に至る仏を成り立たせる不可思議さがある。



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仏教徒から民族主義者への回答


ゲルマン民族にしろ、漢民族にしろ、そして大和民族、民族主義からジェノサイドは起こる。自分たちの遺伝子の束縛が民族主義だとすれば、遺伝子の束縛を超えていくのが、真の教えである。2500年前に1人の大天才が遺伝子の存在に気づき、それを超える教えを説いた。釈尊は直感か、その智慧により、2300年後メンデルら科学者により発見される遺伝子に気づいていた。


釈尊は我々の始まりの無いほどの太古からの遺伝子の貪瞋痴の鎖を断ち切る教えを説いたのである。遺伝子による呪われた連鎖は、我々がウィルスやバクテリアだった時代からあった。それは、滅度への恐怖、無明から始まり、その恐怖により正反対の方向への逃走、つまりは生存への志向()が生じた。生存への志向は己が情報を複製する方法を編み出し、その情報は釈尊により識と呼ばれた。ウィルスは物質に己が識(情報)をほぼ無限にコピーするだけの存在であるが、自分を消滅させるリスクを回避するために、自分の識を変異することさえ始めた。識(情報)の設計図通りに名色、すなわち精神と肉体は形成され、5つの感覚器官と1つの思考器官を供えた。(思考器官を実際の器官とするとヴァイシェーシカ学派になってしまうが、器官が無いとすればナーマに属する)、5つの感覚器官と1つの思考器官はそれぞれの対象に触れると感受作用と思考を生ずる。その感覚に苦しみと快楽のどちらかを生ずる。その苦楽の振幅を仏教用語では愛と呼ぶ。苦しみを避け、快楽を繰り返すように識にプログラミングされている私たちは、快楽を繰り返し執着する()。むろん、快楽へのプロセスも、1番重要な要素である相手の容姿()や性格()も、先祖からの遺伝子の傾向により選ばれる。そして、安定して快楽を生じる相手と性行為を繰り返すうちに、子どもを授かる()。そして、その子供の生まれがあり、老化があり、死がある。これは、十二縁起という仏教における最も基本的な教えである。


十二縁起においては先のものが条件として揃ってから後のものが生じるが、後のものにより、先のものが決定づけられる。例えば、六処は名色に属するが、六処により名色という対象は把握される。生存志向により遺伝子()は娑婆世界に残留されるが、生存志向はその遺伝子にプログラミングされている、というふうにウロボロスの蛇のように頭がシッポを噛んでいる構造となっている。すなわち、老死により無明(死滅への恐怖)が生じるのである。


量り知れない昔から、自らの死滅を恐れた、ウィルスの前段階のタンパク質の原始生物により、正反対の方向への逃走、生命への疾走は始まり、その螺旋の道筋は今も絶え間なく続いている。そう、我々がその結果であり、また次世代への種子を残すべく理由も分からず奮闘中である。理由は?あまりにも単純な理由、滅度、涅槃、死への根源的恐怖(無明)である。この根源的な恐怖は、我々の個人を超えた、集合無意識、さらに根っこの意識の根源に染みついている。


遺伝子が「識」である。ここに、無始太古からの情報が全て記録されている。それは、生命がいかにして死滅を避けてきたかのデータバンク()である。蔵識、一切種子識とも言われる阿頼耶識というものが、最も正確に言い得ている。根本識である阿頼耶識は一切の存在を生じる〈種子、遺伝子〉を保持し維持し、かつ再生時に相続して引き継がれる識であるから阿陀那識ともいう。阿陀那は「維持する」「保持する」という意味のādānaの音写である。釈尊の言っていることのわからなかった古代インド人は、バラモン教の輪廻転生の概念に識を当てはめ、アートマンが転生する、マナスが転生する、または、アートマンではないがプドガラのようなものが転生すると、様々な形而上的な宗教、呪術、学派が様々な表現をした為に、インドは混乱してしまった。釈尊が説きたかった、生物的束縛からの解脱は、いつのまにか一族繁栄や現世利益、国家護持の為の祭祀にすり替えられてしまったのである。


民族主義は自らの遺伝子系統を守り、リスクの原因になりそうな因子、つまるところユダヤ、チベット、ウイグル、朝鮮これらを潰して自らの系統を守ろうとする、極めて盲目的な生物的、本能的なものである。一族や民族の永久繁栄、つまり、識の乗り物である〈種子、遺伝子〉を保持し維持し、かつ再生時に相続して引き継ぐことを半永久に盲目的に繰り返すオートマタ(自動人形)が生物の仕組みならば、それは当時のインド思想に変換すれば、永遠の輪廻を願う、仏教とは、いやヒンズーからしても正反対の思想になるだろう。願うところが永劫回帰では仏でなくニーチェになってしまう。では、我々仏教徒は家族、民族や国体の護持や存続ではなく、そこからの脱出(出家)、解脱を目論むべきなのだろう。とは言っても自己防衛おじさんのように大金が欲しいわけでもないので、彼の論はだいたいが正しいが、こちらとは動機が違う。年金はあてにしちゃダメ、国なんかたよりにしちゃダメであるが、自己防衛おじさんは生存のため、仏教徒は「素晴らしい死」のためである。


『無明滅すれば即ち行滅す、行滅すれば即ち識滅す。』死滅への恐怖が滅すれば、盲目的な生存意志、生存本能は消える。生きる意志はその実、消滅の恐怖から逃走しているだけだということを知る。生存志向が消えれば、遺伝子()は残されない。解脱者は何も残さない。釈尊は自らの国を、シャカ族を放置して滅びるままにした。諸行無常、釈尊にとっては滅びは当然であったし、寂滅為楽、滅びていくのは楽だった。死は恩寵であり、滅度は甘美なものであったのだ。釈尊は自らの教えを「流れに逆らうもの」と呼んでいる。それは暴流のような遺伝子欲求の、生命本能の流れに逆らうものだからに他ならない。


仏教の奇怪なところは、その死、無、滅度、涅槃の側に立ち、沙門は死神とダンスをして喜んでいるということを、何重にも難しい言葉と、複雑な比喩的な表現でオブラートをかけているところだ。法華経の、火宅から出るように豪華な車を用意するも、火宅から出たら「無」しか待ってないことは、オブラートによりぼかされ、わかる人は極めて少ない。化城でワンクッション休ませているのも、君たちは今から完全消滅に向かう、なんて言ったら皆んな逃げてしまうからだろう。仏は死滅までのガイドであり、死神でもある。

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謹賀新年

2021年、あけましておめでとうございます。コロナ禍なので、おめでたくもないですね。

元旦からの1週間、思ったことをつらつらと。

人は相手の願いを叶えようと、その願望の姿をとろうとします。
様々な人の様々な願いは重なるのが難しいですが。仏や天部の神々しかり、衆生の願望のあらわれ。我々ですら父母や先祖の願望のあらわれだったりします。そう思うと他者の願望で構成された私、なんて思い当たります。他に依って生起しており、他者の願望を剥ぎ取ったら、自分なんて無いのかもしれません。問題はその願望がいつの時代から残っているか。


私の思った、と思っていることは、他者の感情やエネルギーを反映したものです。自分をゼロにしたって、いつのまにか他者の思念を自分のものとしてます。自分なんていう単位は無いとすれば、願望を発する当人たちは有るのだろうか?


正月には取り留めのないことを考えてしまいます。


閑話休題。阿弥陀さんの話しを少々。


世自在王仏がシヴァをモデルにしているのならば、願いを叶える存在とされてもおかしくありません。となれば、法蔵比丘の制約と願望は、どう働いているのか?念仏に重きを置く宗派では呪術を禁じてますが、どうも呪術的です。漫画を例にすれば、ハンターハンターのクラピカやゴンの誓約と念能力、呪術廻戦における「縛り」や情報開示が術者の能力を底上げすることを考えれば、その誓約によりエンペラータイムなり、強制的成長なり、無量空処なり、天与呪縛のフィジカル能力なりを得るわけです。


法蔵比丘を世自在王仏を勧請したサマナーみたいな者と考えると、わかりやすいかなー、と。


念仏者は法蔵比丘と世自在王仏の「契約」を重んじています。誓約、つまり犠牲になるものは、法蔵比丘じしんの「悟り」であり、願望は「極楽浄土」の建立です。さてはて…我々、大経の読者はその誓約と願望を信じることにより、ある種、法蔵比丘を世自在王仏へ生贄にしているようなところがあります。

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宇宙のサイクルと阿弥陀仏

阿弥陀仏は十劫も昔に成仏したという。一劫が約432000万年、十劫は432億年である。432億年も前はビッグバン以前ということになる。現代物理学でらビッグバンは今から約138億年前と計算されている。この宇宙の発生する前に法蔵菩薩は成仏したということになるだろうか。つまり、阿弥陀仏は、この宇宙ではなく、この宇宙発生前の、前のサイクルの宇宙で成仏したということになる。法蔵菩薩は五劫、つまり216億年かけて思惟し、432億年前に成仏した。その後、前のサイクルの宇宙は消滅したが、摂取不捨の阿弥陀様なので、前のサイクルの衆生は全て救われた、と考えることはできる。因みに、現在のこの宇宙は、1400億年以上は寿命が持つと、東京大学の研究チームが発表している。すばる望遠鏡の観察による、ダークマターの増加率から計算した結果らしい。


さて、有名な十八願に


たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。


と、ある。


「わが国」であるところの「光りの国」であるところの西方極楽浄土は、432億年前、前のサイクルの宇宙の存在中から、消滅後も、このサイクルの宇宙の誕生後も存在し続けていて、経典通りならば、我々仏教徒は死後、そこに往生し、蓮華から誕生する。


しかし、これについて私にはある謎が生じた。現代の念仏者が、未だ往生するかどうか未確定のため、この十八願の十方の衆生に、このサイクルの宇宙の我々現代人類が含まれるのか?という疑雲が生じたのだ。十方は三世ではないのだ。例えば、前サイクルの宇宙において、阿弥陀仏が成仏した時期、かの十八願の条件は満たされて、法蔵菩薩は正覚を取り、成仏したのかもしれない。なるほど、阿弥陀仏は同じ条件の念仏衆生を救済し、我々は蓮華生するかもしれない。しかし、現サイクル宇宙の、現代においては、往生に至る十八願の法的拘束力は、ないことになる。


ここら辺の曖昧さが、日蓮主義者に、現在の衆生を救うのは釈迦仏とされて念仏者が批判される穴となっているのかもしれない。三世仏においては阿弥陀仏が過去仏、釈迦仏が現在仏、弥勒仏が未来仏とされている点も、阿弥陀の願力が現代のこの宇宙において効力を確実に発揮しているのか、釈迦仏こそが現在のこの劫のメッティヤなのでは?という疑問から、日蓮主義者やテーラワーダや、禅や瞑想センターの人達まで、釈迦仏に回帰している理由なのかもしれない。奇しくも、本日は成道会である。


では、阿弥陀仏がこの現サイクルの宇宙において、この時代の衆生を救う、根拠となるお経はあるのか?


今、探しているところである。

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